2020年12月27日日曜日

12/25  年の瀬の浅草






 


コロナ禍」で始まり「三密」で暮れる令和2年12

 用事を済ませ立ち寄った浅草寺境内でシェアー自転車を止め、考え込んでいます


*「キレイ/輝く風景、楽しく/ほっとする動植物の写真便り」の令和2年度

最終週の写真コマ割りのことを

暗い/不安な一年を拭い去り 明るく楽しい生活に向かうにはどうすれば


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20201225

    年の瀬の浅草


340-1 令和212月の境内

 一見平和な浅草寺境内風景。しかしほとんどの人がマスク顔の日本人、暖かな小春日和の歳の瀬なのに、三密意識とウイークデーのせいか人出はパラパラでした。


340-2 

  この群像は境内の浅草寺本坊前に以前から設置されている朝倉文夫の遺作*

 昔見たときは「ロダンのカレーの市民に発想が似ているなー」くらいだったのに、

 今見ると群像のそれぞれの顔がコロナ禍に例えた不安予見ではないか!?


  *東洋のロダンと言われた朝倉文夫 白血病による死を意識した直後の作品

*朝倉文夫(1883明治1631964昭和394) は、十和田湖畔の「乙女の像」

をはじめ各地に美しい作品を残してくれた彫像家

大正・昭和の美術界の重鎮で、帝国美術院会員・勲四等瑞宝章 受章者です。

作品(金属)は終戦間際にほとんどが供出されて 現在は上野公園近くの「朝倉彫塑館」に 

作品原型300点あまりが保管されています。

                                                       

340₋3 母子地蔵

この場所は浅草にお参りするとき必ず立ち寄る、晴天のときは「ホッ」とします。

(撮影12月初旬)未だ厳しい寒さが少なく暖かい日差しを浴びた穏やかな母子の表情でした。


340-4 阿弥陀如来像 

  境内にありながら何故か気付かない人が多い阿弥陀さま1654年に(承応三年:徳川四代家綱時代)

奉納、その年江戸時代になって初めての浅草寺復興*法要秘仏御開帳に間にあったのです。

  静かな秋の陽射しを受け、世の災難に「戸惑う心」を鎮めてくれる穏やかな表情でした。

*;創建(645大化元年)以来 火災焼失7回、 江戸になって1回、通算9回目の再建でした。


340₋5 前を向いて歩こう

 若者は立ち止まりません、前を向き歩むことが人生なのですからでも「三密」は意識してネ。


 では来年が明るく・良い年になるようお互いに頑張りましょう。

山ケン


2020年12月18日金曜日

12/18 もう今年も残すところ2週間

 







もう今年も残すところ2週間、早いものです。 

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20201218

  

【ニュース】

 20年以上通っている山ケンの生活圏である「手賀沼中央で 今年は広大な蓮の群生が全滅した一輪の花も咲かず葉も一枚も出ないのです

目下千葉県の環境課で調査中だが未だに原因・理由はわからない。更に定住のコブハクチョウの生活域も子育て中の4家族を除き 数十羽の独身者・一昨年生まれの子供たち全てが10km程東の南手賀に大移動したのです、この理由も“?”のままです。 来年がどうなることか心配です。

コロナ騒動の今年、夏の暑さと重なり外出自粛生活 etc で、なかなか写真撮影にも出かけられず、上記ニュースも9月になって知ったのです。

 

 

今週のテーマ; 2020年【令和二年】山ケン宅のささやかな庭の出来事

 

「三密」対策を理由に庭の木陰に居ることが多く、おかげで いろいろ気付いたことがありました。

 

【庭の出来事】

3391 例年庭に営巣するキジバトが今年は木を換えて2回も抱卵に失敗、つい

   に雛が一羽も生まれなかった

 

339-2 今年作ったビオトープでメダカのタマゴ孵化に成功 稚魚が育った

 

339-3 庭の蝉の誕生が特に少なかった

 

339-4 クスノキに産卵するアオスジアゲハ蝶の産卵も少なかった

 

339-5 ()初めて飛来したムラサキシジミ蝶()郵便受けの上で交尾し

ているヤマトシジミ蝶

 

以上 ささやかな「わが家のニュース」でした。

 

山ケン

2020年12月12日土曜日

12/11 手賀沼のある日のスケッチです・・・










手賀沼のある日のスケッチです・・・

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20201211

 カラスVS.トビ

冬、カラスたちは生活圏周りを群れで飛び回る。縄張りパトロールだ。

彼等が棲む湖沼周辺の森にはトビも生活していて、獲得した餌をめぐってバトルになることが絶えない。餌の少ない冬は“犬猿の仲”的な鳶烏の仲なのだ。


338₋1 トビが確保した獲物を狙うカラス

 (この撮影はカメラを向け小一時間だった) 結局勝負はカラスの執拗なアタックでトビが捕った魚を沼に落としてしまいドローゲームになった。


338-2 カラスの縄張りパトロール

 トビは魚をあきらめ森へ向かう、そこでカラスのパトロール網に行く手を阻まれ カラスの追撃が始まります。


338-3 空中戦

 トビが複数の場合ではカラス集団は散開し1対1の空中戦になる。


338-4 執拗に追撃するカラス

 カラスの方が追撃スピーは早く直ぐに接近、しかし、機敏なトビの瞬時の飛翔制御で体をかわされオーバーランするカラス・・・


338₋6 逆襲

 すかさず逆襲に転じるトビ、でもカラスの逃げ足は意外と速く、追撃戦もドローで終わるのが普通です。


338-7アタック成功

 ときには、カラスのアタックが成功、トビの羽根に食らいつく。その場合はそこで バトルは終了になります。


338-8  春~秋

餌が豊富な季節はカラスの縄張り主張は少なく、この時期 田圃の畔では 互いに牽制するがバトルになることは稀で、“鳶烏”は冬の風物詩です。


山ケン


2020年12月5日土曜日

12/4 【江戸城新シリーズ6】 皇居正門「二重橋」今昔

 















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【江戸城新シリーズ6】

皇居正門「二重橋」今昔

正月の一般参賀(来年は中止)で皇居正門から入り宮殿東庭の中門に至る手前に“鉄橋 ”があります。皇居の「二重橋」と言えば正門の前にある“石橋”を思い浮かべる人が多いでしょうが本当はこの“鉄橋”が通称)“二重橋”なのです。

*正式名は「皇居正門()石橋」「皇居正門()鉄橋」です。

今週はそんなたわいもないお話です・・・

 

3371 伏見櫓

 この写真は皇居を象徴する代表的な美しい姿。と、山ケンも自負するもので、 皇居外苑広場 馬場先門通りの一画からの望遠ショットです。

カメラ位置は標高約2m、標高約28mの石垣基部から高さ13.4mの伏見櫓を見上げた。堂々とした櫓の下に「皇居正門石橋と鉄橋」の欄干も写っている。

 

337-2 現在の皇居正門石橋と鉄橋

 外苑広場の「二重橋濠」の高さから見上げると 鉄橋の横姿は見えず通称メガネ橋“石橋”だけが見え、「これが二重橋なのか」と勘違いする人が多い。

今では宮内庁・皇宮警察の担当者たちも「マッ、いいか!」となって いつの間にか是認しているようです。

 

3373 明治初期の写真

明治初期の「西丸大手門(櫓門・高麗門)」と「西丸書院前門」の間にある木橋①西丸大手橋と②西丸下乗橋の写真です。

実はこの②下乗橋がまさに二階建ての橋のため「二重橋」と言われたのです。

 

3374 西丸下乗橋(鉄橋の前身)

 この橋は、徳川秀忠が建造。家康の隠居御殿“西丸御殿”の西丸大手門からの道と濠の深さが違い過ぎ(約20m)、当時の粋を集め造られた。現代の表現では「木造トラス橋*①」と言える斬新な構造が 人々に「橋が二階建てに見えたため “二重橋”」と言ったのでは・・・(資料無く山ケン想定)。 

 *;応力強度を強めるため三角形を基本単位として構成する橋の構造

 

山ケン

2020年11月27日金曜日

11/27 晩秋の日比谷公園

 







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晩秋の日比谷公園

 

日比谷公園は今 紅葉/黄葉の真っ盛り、なのに人影が有りません。

“三密”回避はこんな所にも?

 

3361 紅葉と 黄葉競う 鶴の池

   *日比谷公園「雲形池」の鶴の噴水は、明治38年頃東京美術学校(現在の

東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声さんに依頼製作したもので、公園等での装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。

 

 

336-2 池の端 諸手にもみじ 見栄をきる            

    *池周りの道端一杯に 大見栄をきっているのに観衆は…

 

336-3 小春日の ベンチに木陰 ながながと

*昼食後の日比谷公園 穏やかな晩秋なのに誰もベンチに居ません

 

336-4 もみじ葉の ラストダンスは 空に舞う       

*まさにフィナーレです、その後は・・・

 

“フォト俳句”の駄作羅列でスミマセン

少しセンチになったもので 花石「化石ではありませんヨ 山ケンの俳号です」(笑)

 

山ケン

2020年11月22日日曜日

11/20 【江戸城新シリーズ5】 火除けの守り神 鯱(しゃちほこ)






 


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20201120  

【江戸城新シリーズ5

火除けの守り神 (しゃちほこ)

 

先々週(333)「大手門」で紹介した鯱のように、江戸城の遺構で現存(復元建造物も含む)する櫓(やぐら)屋根の大棟には必ず鯱が雌雄で(火事の)睨みを利かせています。

*鯱は、織田信長が安土城1576:天正4を建てるとき 始めて中国の「瓦葺屋根大棟の両端につける飾り鴟尾しび)」を真似て 魚虎しゃちほこを“火除けの守り神”として天守閣の大棟に飾った。

それ以来各地の城主たちの“城造りの慣例”になったと伝えられ 江戸城でも踏襲された。

 

3351 名古屋城の“金の鯱鉾(又は鯱)

徳川家康が江戸幕府の「天下普請(1603年:慶長8)」に並行し、1615(慶長20)、東海道の要所 名古屋に「天下人としての威厳を見せつけるため」に造った天守の飾りが金の鯱鉾でした。

 *慶長大判1,940(金の総重量:215.3kg)も使った豪華な鯱鉾になった。 

 

335-2 江戸城 富士見櫓の鯱

  富士見櫓*の鯱は、創建1606(慶長11)。明暦の大火で焼失、1659(万治2)に再建され、明治維新で江戸城が皇居になった後は鬼瓦を菊の紋章に換え現存している。

*① 現存する江戸城の櫓の中で唯一の三重櫓、万治二年の再建以降は天守の替わりになっていた。

 

335-3 江戸城 清水門 渡櫓門の鯱

  創建は不明だが扉金具に残る刻印から1658(万治元年)に建てられた事が分かり、建立年代の判明した江戸城の遺構として 桝形門と周囲の状態も当時と変わらずに 往時の雰囲気を残す門です。大屋根は補修されているが鯱・鬼瓦も徳川の紋のまま昔の姿を残しています。

 

335-4 桜田門の鯱と菊の紋章

  「桜田門外の変」の桜田門の鯱と菊の紋章。関東大震災で一部が破損 改修され,鬼瓦は新製、鯱は昔のまま使われた。

 

3355 浮世絵「諸国名所百景“名古屋”」“金の鯱鉾”

  鯱は、龍(虎とも)の頭、胴体は魚 体に鋭いトゲ。江戸時代の書に「鯱は口から水を吐き、火を消す力」を有し寺院や城郭では本堂や天守など重要な建物に火除けの守り神として飾った。

 

山ケン