2019年2月23日土曜日

2/22 二十四節気








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20190222

二十四節気;七十二候では 21923日は「雨水初候;土脉潤起(つち の しょううるおいおこる) ⇒「雪が春の雨に変わり、凍てついた大地もゆっくり潤い始める」と言う頃だそうです。

手賀沼公園もどことなく春になってきました。
自宅から自転車で15分 まだ寒い春、それでも手賀沼公園(我孫子市)の休日はファミリーの憩いの場所でした。
日課の湖畔一周では単に通過ですが、今日は風もなく穏やかな公園をゆっくり通って「雨水初候」を楽しみました。

2441早春のワンド
 公園のワンド(入り江)は 冬の渡り鳥たちほとんどが北へ帰り 残っているのは手賀沼住民のカルガモ、カイツブリ、オオバンになりました。

2442ひと時
 早春のベンチ下も草が芽生え色をつけてきました。

2443休日の家族
乳母車の赤ちゃんも寝ていますネ・・・
 
2444公園のひと時
 北帰行に遅れたオナガガモが餌をねだっていました。

山ケン

2019年2月17日日曜日

2/15 上野界隈散歩シリーズ 第12話 正岡子規と野球







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20190215
上野界隈散歩シリーズ

12話 正岡子規と野球
 
「上野公園内の東京文化会館の横に“都民野球場”があるのをご存知ですか?」
その広場が2002(平成14)正岡子規記念球場」と名付けられ、さらに正岡子規は野球に貢献した人として特別に表彰され“野球殿堂入り”も果たしたのです。

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この野球場が 子規の随筆“筆まかせ”に「明治21321日午後、上野公園博物館横空地で試合を行なった」とある所です。

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子規は1884(明治17)第一高等中学校に入学するとまもなく野球をおぼえ、他のスポーツには目もくれず野球に夢中になっていった。
 英語が堪能で「ベース:Base」を基礎⇒“基”との 訳にこだわった以外は現在も使っている用語が多い。

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 1892(明治25)彼は大学を退学“日本新聞社”に入社すると随筆にベースボールに関する英文を翻訳した解説掲載で広く野球啓発に貢献した。
 彼は明治27年 上野寛永寺裏(写真1☆印)に母妹と共に住み、そこを「子規庵」と命名し活躍した。明治29年 記者として日清戦争に従軍帰路初めて喀血。

243-4 子規の部屋
帰国後 子規は病魔に負けず句会・歌会などに励んだが徐々に病魔は進行し「脊髄カリエス」もひどくなっていって 机(写真)を特注で作らせたりした。
山ケンが子規庵を訪ねた12月、あいにくの休日で中には入れなかったが彼が辞世の三句を残した918(命日は19)の記憶ヘチマの実る庭の写真が貼ってあり コピー撮影しました。

山ケン

2019年2月9日土曜日

2/8 上野界隈散歩シリーズ 第11話  上野で世界遺産の建築物とロダンに会おう!







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20190208 
上野界隈散歩シリーズ

11話  上野で世界遺産の建築物とロダンに会おう!

国立西洋美術館の本館は「世界遺産」です!
ル・コルビュジエ*①が設計1959年竣工した上野公園内の“「国立西洋美術館」”が世界遺産になりました。

ル・コルビュジエの「作品-近代建築運動への顕著な貢献作品群」として
フランスが「世界7カ国に散在する彼の建築作品 計23件の建造物を一括して申請
17件が20167月“イコモス(ICOMOS*②)”から世界遺産に登録認定されたのです。
  *①ル・コルビュジエ(18871985);近代建築の三大巨匠*③の一人。
   *②イコモス(ICOMOS)国際記念物遺跡会議:世界の歴史的な記念物および遺跡の保存に関わる専門家による国際的な非政府組織。
  *③近代建築の三大巨匠;①フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright、米、18671959)“帝国ホテル東京”も設計 ②ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、独、18861969) ③ル・コルビュジエ(Le Corbusier、スエーデン/仏、18871985

242-1 世界遺産“国立西洋美術館”
 ル・コルビュジエの建築作品コンセプトは①ピロティー(柱)」②「水平連続窓」③「自由な平面」④「自由な立面」⑤「屋上庭園」などで“建築物の近代的要求を満たす傑作が多く「20世紀の近代建築運動
に著しく影響したと言われています。
上野の国立西洋美術館ではル・コルビュジエの提案を受け入れ さらに展示室の中心までスロープで昇っていくという 渦巻き形の動線を特徴としているところが傑作です。

242-2 前庭のロダン作品 “考える人”
242₋3 同        “地獄の門”
242-4 同        “カレーの市民”

山ケン

2019年2月3日日曜日

2/1 上野界隈散歩シリーズ 第10話 美術・音楽教育の夜明け








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20190201

上野界隈散歩シリーズ

第10話 美術・音楽教育の夜明け

 明治政府は新政策の中で“教育環境”整備も手掛けた。1873(明治6)
日本初の公園に指定された上野のお山に1882(明治15国立博物館および
付属動物園が完成。その後新しい施設が続々と造られた。 
  
241-1 公園の変貌 
博物館完成後1885年(明治18年)岡倉天心・狩野芳崖*①等が中心となって創設した「図画取調掛1887(明治20)
が 現在地に官立「東京美術学校
として授業を開始。時を同じくして下谷にあった官立「音楽専門学校」が引っ越してきた。現在の「東京芸術大学」の前身です。

 *① 岡倉 天心(おかくら てんしん)(18631913)は、日本の思想家で文人;1890年(明治23年)東京美術学校初代校長狩野 芳崖(かのう ほうがい)(18281888);幕末から明治期の日本画家で近代日本画の父

241-2 若者たちを見守る校門
東京芸術大学は美術、音楽の人材インキュベータに変身しました。

241₋3 今も健在な学び舎
この学び舎から山田耕筰、滝廉太郎、舟橋徹、春日八郎、黒柳徹子など数えられない程 育っていったのです。

241-4 旧東京音楽学校奏楽堂
旧奏楽堂は1890(明治23)学校内(写真2の中)に完成 長年使用されていたが、昭和59年に解体し、1987(昭和62)上野公園内の現在地に移築復元され2018(平成30)より一般の使用ができるようになった。
 *現在の新奏楽堂は1998(平成10) 旧奏楽堂の場所に最新の設備が完成した。

山ケン