2018年12月30日日曜日

12/28 上野界隈散歩シリーズ











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20181228
平成30年最後の“写真便り”です。

上野界隈散歩シリーズ

第七話 上野にもある東照宮
上野東照宮
2009(平成21年)から2013(平成25年)まで修復工事が行われ、2014(平成26年)から公開されました。
                       *重要文化財です

236-1 上野東照宮
徳川家康が生前「江戸の町が見える所に“社”ほしい」と言ったことを記憶していた藤堂高虎は「大御所家康を祀る“社”
を江戸にも造りたいと考え 家康の一周忌が過ぎ10年後1627(寛永4) 上野にあった自分の敷地内に寛永寺の天海と“東照大権現社”を創建した。
1646(正保3) 天皇から 東照大権現を「東照宮」と宮名を拝領。
徳川家光が「日光東照宮」の大改築を終えた1651(慶安4年) 寛永寺の中の東照大権現社の改築を指示し日光と同じ「東照宮
と命名 落慶した。
      *現在は“上野東照宮”と呼び 日光と区別している。

236₋2社殿“金色殿”
この社殿は 徳川家光が改築したもので、江戸の大火上野戦争関東大震災東京大空襲など全て焼失を免れた幸運な社です。
*写真の金色堂が見える透塀の内部(カメラ位置)は見学(有料)
きますが内部は非公開 撮影禁止です。

236-3唐門と透塀(すきべい)
正式名称は唐破風造り四脚門(からはふつくりよつあしもん)
柱の四額面には、日光東照宮の「眠り猫」で有名な左甚五郎作の上り龍・降り龍の彫刻(写真;扉の左右)。外が見える透塀(塀の緑色部)上段には野山の生き物、下段には海の生き物など200枚以上彫られていて極彩色のものです。
*平成の保存修理工事では江戸当時の姿を蘇らせるためにすべての
彫刻に営当時の顔料を使い金箔の上に彩色を施した素晴らしい
ものです。

236-4唐門
 門の扉の上には亀甲花菱、正面上部には錦鶏鳥・銀鶏鳥の透かし彫。日光東照宮にも負けない精巧なものです。
*唐門は普段見られます是非機会をつくってご覧ください。

【年末後記】
来年も健康(ボケ・体力・病気対策)維持で 写真便りが出せるように頑張ります。
よろしくお願い致します。
皆さん 良いお年をお迎えください。

山ケン

2018年12月22日土曜日

12/22 上野界隈散歩シリーズ 第六話 東叡山寛永寺  その5 「徳川歴代将軍霊廟







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2018121
上野界隈散歩シリーズ

 第六話 東叡山寛永寺  その5 「徳川歴代将軍霊廟


寛永寺は、天海の指示を守り大僧正没後 六人の将軍霊廟【四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定】を建立した。が・・・

234-1 徳川綱吉霊廟“常憲院殿勅額門”
234-2  常憲院水盤舎
それらは上野戦争では破壊から免れたものの 第2次大戦でほとんど焼失してしまった。
現在は五代綱吉を祀っている常憲院殿勅額門と水盤舎が当時から残っている。
 天璋院篤姫の墓所も この中に祀られています。

234₋3常憲院宝塔
石造りのため 幸い戦火を免れたのはこの五代綱吉宝塔と・・・

234-4 有徳院宝塔
八代吉宗宝塔です。
*上記写真は全て私的なものとして非公開のため 特別に寺院資料の掲載許可を得たコピーです。

234₋5 現在の根本中堂
将軍家の位牌は昭和39(1963) 現在の根本中堂の裏手に霊殿が復興され収められています(非公開)。
山ケン

2018年12月15日土曜日

12/15  上野界隈散歩シリーズ 第五話 東叡山寛永寺  その4 「昭和・平成復興のお堂







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20181214
上野界隈散歩シリーズ
 第五話 東叡山寛永寺  その4 「昭和・平成復興のお堂


234-1 不忍池辨天堂
辨天堂は寛永寺を開いた天海大僧正が“比叡山麗の琵琶湖竹生島”になぞらえて寛永年間 不忍池に中の島を築き建立した。
 東京大空襲で焼失し昭和33年の再建です。

234-2不忍池から見た辨天堂とスカイツリー
芸能の神“弁財天”と長寿の神“福禄寿”が並んだ 平成のおめでたい風景です。

234₋3開山堂
開山堂は三代将軍家光の時代 天海大僧正の没後1年 1644(正保元年)に「慈眼大師」号が下賜され御影堂(現:開山堂)が創建された。
しかし火災で何度も焼失、1993(平成5)に開山堂として再建しました。

234-4開山堂の主“慈眼大師天海大僧正”
徳川家康・秀忠・家光の3代が帰依していた天台宗の僧・天海*①は江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考え 上野の山の大寺院計画は全て天海の構想の基に造られた。
 
*①【天海のエピソード】
1536(天文5)1643(寛永20)107歳まで生きた長寿僧
・徳川家康の側近から三代将軍家光20歳まで、「幕府の総合コンサル的役割
で君臨。
1607(慶長12年)信長の焼き討ちなどで荒廃していた比叡山延暦寺の復興に関して 比叡山探題執行役(比叡山の復興採否決定の最高責任僧)を命ぜられ 延暦寺再興に関わった。
・家康から始まった江戸城の工事は 1640(寛永17年)に終わるが、天海はなお存命しており、江戸の都市計画の初期から完成まで、50年近く関わった
ことになった。
上野に吉野から桜を移植して町民の為の「上野の桜山」を造営した。
山ケン

2018年12月8日土曜日

12/7 秋の柏の葉公園







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20181207
秋の柏の葉公園

127日 二十四節気では「“大雪”雪いよいよ降り重ねる」です。
今年は天候不順で季節外れの高温や台風による塩害があったりしたが 柏の葉公園では何とかケヤキ類が綺麗に紅葉しました。

写真便りも3年半です。

今日写真便り原稿作成中にパソコンシステムは生きているのにUSB接続の外付け常用ハードディスクが壊れ何もできない大事件発生!!
しかも前回実施の別メモリーへのバックアップが201512約3年分の写真便りの素材、実績データが全て消えてしまったのです。使用していたUSBハードディスクの稼働が10年過ぎていたので「そろそろ新品交換
と考えていた矢先のことでショック最大!
 止むを得ず「データ復活
のため 以前取引したことがある会社(銀座で日本一の実績保有会社)とコンタクトし強引に予約 翌日ハードディスクを持ち込み 復活処理を発注した。休日中にも関わらずその夜に原因判明連絡あり 即刻データ復活作業してもらい 翌日受け取った。その夜 新規購入したUSBハードディスクにデータをコピーして対策完了(ホッ!) データは復活しました

復旧費用は12万数千円也!+ USB 1TBハードディスク購入8千円でした。
データバックアップを1ケ月でも早く済ませていれば8千円の出費で済んだわけですω`)「あーぁ

 自戒;「バックアプ作業は計画に基づき サボらず必ず実行すること!」

と、云うことで今週は“上野界隈散歩シリーズ”はお休みです。
ピンチヒッターは11月末 柏市内で撮影した「秋の‟柏の葉”公園
です。

233-1 公園通り
233₋2 やまもみじ
233₋3 広場への道
233-4 日本庭園入口

山ケン

2018年11月30日金曜日

11/30 上野界隈散歩シリーズ 第四話 東叡山寛永寺 その3 「旧寛永寺遺産」







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20181130 
上野界隈散歩シリーズ

 第四話 東叡山寛永寺 その3 「旧寛永寺遺産


232-1 旧寛永寺五重塔 
1631(寛永8年)、江戸幕府の老中で、後に大老となる土井利勝(どいとしかつ)の寄進により「上野東照宮の塔(現在の呼び名:旧寛永寺五重塔)
*1として創建された。しかし 1639年(寛永16年)の春 花見客の過失によって焼失してしまい、現在の五重塔はその年のうちに再建されたものです。
 塔が出来て380年、 幾多の大地震にも耐えたのは “柔構造建築”のおかげです。

 *1東照宮の五重塔が寛永寺の管理になったのは明治政府が1868(慶応4年)に“神仏判然令「神社内にある仏像(この中に五重塔も含む)・仏具・経典などの排除令
神仏分離”の結果です。現在は上野動物園管理。

232₋2 時鐘堂
花の雲 鐘は上野か 浅草か」松尾芭蕉が聞いた鐘の音は1666(寛文6)に出来た初代のものでしょう。現存の鐘は1787(宝永4)製造です。

今も毎朝夕6時と正午に鳴り響いている時鐘堂の“時の鐘”の管理は寛永寺です。

232₋34 上野大仏
1631 (寛永8年)越後 村上藩堀直寄漆喰釈迦如来坐像を建立。
1658 1661万治年間)遊行僧 浄雲が金銅像として再興。
その後、正保、安政、関東大震災と幾度かの地震、軍需金属供出など 受難続きで ついに顔面だけになった上野大仏さんです。
今では「合格大仏」と言われ お参りする人が絶えません。

山ケン


2018年11月23日金曜日

11/23 上野界隈散歩シリーズ







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20181123 
上野界隈散歩シリーズ

 第三話 東叡山寛永寺  その2 戦乱に耐えた建造物

231-1 旧本坊表門
旧中堂の裏手にあった“本坊表門”は上野戦争で奇跡的に砲弾があたらず明治を迎えた。明治になってそのまま国立博物館正門としていたが 館増設の都合により当時空き地だった現在地に復元移築した。

2312 清水観音堂
上野戦争では被害はなかった。 1868 (慶応4)515日 彰義隊はこの付近に集結していた。

2313 上野寛永寺黒門
上野広小路に進出対峙していた薩摩藩士が寛永寺総門の「黒門」前で 午前7時半頃宣戦布告。観音堂下の彰義隊士たちと激戦になった。
午後5時には彰義隊は ほぼ全滅 戦闘が終結した。

2314 寛永寺 その2
千住 円通寺は現在のJR南千住駅近くです。

山ケン


2018年11月17日土曜日

11/16 第二話 東叡山寛永寺  その1







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20181116 
上野界隈散歩シリーズ

 第二話 東叡山寛永寺  その1 

230-1東叡山寛永寺(とうえいざん かんえいじ)
現在の東叡山寛永寺は上野の東京芸大の裏にあり ひっそりとして訪れる人も少ないお寺です。
が、この寺は徳川将軍家の祈祷所・菩提寺徳川歴代将軍15人のうち6人もの霊廟がある名刹17世紀半ばから皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として強大な権勢を誇っていたのです。
 現在の根本中堂は以前寛永寺の子院・大慈院があった敷地に、明治12年(1879年)川越 喜多院(天海大僧正の寺院だった)の本地堂を移築した質素なものです。

2302 根本中堂内陣
外観に比べ 内陣は大変豪華な造りで 中央の大きな厨子に安置されている本尊釈迦三尊像は 平安初期に造像されたものです。ここに根本中堂を建立するにあたり近江の石津寺(せきしんじ)から迎えられたもので“秘仏”になっています。
              *この内陣撮影は特別に許可を貰いました。

2303 初代歌川広重「東都名所 上野東叡山全図」
*東叡山寛永寺最盛期の姿を初代歌川広重が画いています。
開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海で本尊は薬師如来です。
 1625(寛永2年)家光が創立を決断、今の東京国立博物館の場所に本坊(貫主の住坊)が建立された。
その後、1627(寛永4年)には 今は焼失した“法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵”、現存する東照宮など建立。 1631(寛永8年)には清水観音堂、五重塔が建立された。
寺の中心になる 根本中堂(間口45.5m、奥行き42m、高さ32mの大伽藍:焼失)が落慶したのは開創から70年以上経った 1698(元禄11年)、五代将軍徳川綱吉の時でした。

2304上野戦争 旧寛永寺図
上野戦争は、慶応4年 江戸城無血開城が成立した後、徳川に“義”を示す過激派“彰義隊”が結成され 上野寛永寺境内に籠もり新政府軍と寛永寺各門で対峙した。
慶応4515日午前7時 雨の中 新政府軍 薩摩藩の宣戦布告により三方からの戦闘が開始。
佐賀藩のアームストロング砲・四斤山砲*1の攻撃などにより根本中堂をはじめ主要な堂宇は焼失 壊滅的打撃を受けた。午後5時に戦闘は終結した。彰義隊はほぼ全滅、生き残りが根津方面に落ちていった。

上野のお山は明治になって新政府に接収され 公園、学校などが造られた。

1;①アームストロング砲⇒幕末に佐賀藩が保有していた最新の後装施条
砲で精度が高い。1855年イギリスで開発され佐賀藩は長崎のグラバー
邸を仲介して輸入した。
  ②四斤山砲(よんきんさんほう)⇒フランス製(青銅製)の山砲(現在の迫
撃砲のような小型砲)で、四斤(4㎏)の砲弾で威力が強い。

山ケン