2019年10月26日土曜日

10/25 カメラ散歩  江戸城シリーズ Ⅳ “江戸城天守物語”








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20191025
カメラ散歩  江戸城シリーズ Ⅳ “江戸城天守物語”

江戸城天守「石垣は残った

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 家康が築いた「慶長度天守1607(慶長12)」を二代秀忠が「元和天守1623(元和9)」として本丸の大改造時に造り直した。さらに三代家光がそれを15年で取り壊し 日本最大規模の「寛永度天守:1638(寛永15)」を造った。が、完成して20年も経たず明暦の大火1657(明暦3)‟振袖火事”で焼失した。

 *写真は江戸東京博物館内の展示模型で、写真に見える範囲で 富士見三層櫓以外に20ケ所に櫓があったが省略、中乃門を入ったところの大番所など付属施設も省略されているがかなり精巧に作り込まれていました。
 現在は本丸・二乃丸跡共に遺構はなく全体が緑豊かな公園として一般公開。
現存する濠と石垣が往古を忍ばせてくれます。
*現在の自由入城門は大手門・平川門・北桔橋門です。散策にどうぞ。

279-2天守台
火事から2ケ月後、1658(万治元年)に四代家綱が天守再建を計画し、先ず全国屈指の石垣築城技術を誇る加賀藩前田綱紀(つなのり)に命じ天守台を再組した。
再組は見栄えの良さを強めた高さ12m・東西41m・南北45mとなった。

*現在この石垣は世界に類を見ない完成度の高い遺跡として端麗な姿を
残しています。
279-3再建予定の天守
ところが、家綱の輔佐役(大政参与)保科 正之*の進言「天守の復興より明暦の大火後の町民の救済・江戸のインフラ整備が重要」が優先され 幕府は設計を終えたが再び天守台に天守を建造することはなく、石垣のみが残った

 *保科 正之⇒三代将軍家光の異母弟で陸奥会津藩初代藩主。
家光の遺命により幼少の四代将軍家綱の後見人的役を担い“家綱として
の幕政実行による 江戸発展の最大の貢献者”。

279-4 江戸城寛永度絵図
本図は 平井 聖(きよし)(東京工大名誉教授)が『御本丸寛永度絵図』と『寛永度絵図大奥』の大きな保存図面をコンピュータスキャン、国土地理院“1万分/1地図”に展開しWebに公開した精密な図の一部分です。
2791江戸東京博物館のスケール模型の基になったものと思われます。
 
2795 天守復活?!
2019年 令和元年になった6月「週刊新潮WEB版」に“NPO法人江戸城天守を再建する会の関連記事が掲載されていました。そこには「奈良や京都には、昔の建造物が残されていますが、東京には文化のシンボルと言える伝統的な建造物がありません。江戸城天守を再建することは、単なる観光のためではなく、日本人のアイディンティティ、日本の風格、日本の伝統技術を後世に残すという役割も担っているわけですよ」と、ありました。
 「皆さんはどうお考えになりますか」

山ケン

2019年10月19日土曜日

10/18 カメラ散歩  江戸城シリーズ Ⅲ“江戸城 外郭の城門”








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20191018
カメラ散歩  江戸城シリーズ Ⅲ“江戸城 外郭の城門”

江戸でよく言われた「江戸三十六見附」は1636年の 内郭(内濠)の主な城門(277₋1参照)10ケ所と時期が違うため、今回は1636年当時の外郭城門が有った場所の地図と日比谷門、虎ノ門、馬場先門と和田倉門を紹介します。

278₋1 江戸城外郭の城門(見附)
江戸城が完成した1636(寛永13)外郭城門(見附)22ケ所です。その外郭を歩くと総距離は約12(KEN計測で±2km)。その概略の広さは千代田区と中央区を合わせた2200ha(22)にも迫り 外郭城内面積は当時ではたぶん世界一の広さだったでしょう。

 明治になって 維新政府は皇居と決めた内濠の城門の一部を除き日比谷門をはじめ全ての外郭城門は即刻撤去を決め1873(明治6)までに撤去したのです。
 しかし石垣まで完全撤去が出来ないものがあり 残っている石垣が昔日を忍ばせてくれていますが・・・

278-2日比谷門
1627(寛永4浅野長晟が石垣を積み 翌年伊達政宗が枡形門を築いた 日比谷門の特徴は、濠を暗渠にして高麗門前に橋がないこと。枡形の北側(写真手前側)の日比谷濠に面した仕切りがないのは敵を濠へ追い落とす武者落しで 対岸の日比谷櫓から応援射撃が受けられるためです。
*写真;桝形構成の高麗門(右側)・渡櫓と土塁(中央)・日比谷濠(手前)1874(明治6)城門撤去令以前のものか?

278₋3虎ノ門虎ノ門見附)
虎ノ門は肥前国佐賀藩主の鍋島勝茂が築いた。枡形そのものものは江戸城普請の1606(慶長11に完成した。初期の東海道に通じる門で、四神相応の西を守護する白虎から虎ノ御門と呼ばれた。
2004(平成16中央合同庁舎7号館の建設にともなう発掘調査で70mにおよぶ虎ノ御門外濠石垣が発掘された。これらの石垣は、文部科学省構内ラウンジ前や銀座線虎ノ門駅の新庁舎連絡通路内に展示コーナーを設けています。
*写真;1874(明治6)全体が撤去され溜池からの水路も埋める以前のものと推定。

278-4馬場先門馬場先見附)
 1629(寛永6に枡形門か完成していたが架橋されず、不開御門と呼ばれていた。1635(寛永12家光が三代将軍就任祝賀に訪れた朝鮮特使団の曲馬を不開門内の馬場で見たことから朝鮮馬場と呼ばれ、それがいつの間にか馬場先の門と呼ぶようになった。
*写真;馬場先門は1904(明治34)に解体された。

278₋5和田倉門(和田倉見附門)
 和田倉門は1620(元和6に構築され「蔵の御門」とも呼ばれ、士衆通行(町民は通れない)の橋とされていた。日比谷入江に望んで倉が並んでいたことで、慶長12年頃から和田倉と呼ぶようになった。
和田倉門の高麗門・渡櫓が関東大震災で大破、1914(大正13)に破却されたが残った石垣に木橋を精密に復元し現在も使われています。

山ケン

2019年10月12日土曜日

10/11 カメラ散歩  江戸城シリーズ Ⅱ “江戸城ってどんなところに出来たか”







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20191011

カメラ散歩  江戸城シリーズ Ⅱ “江戸城ってどんなところに出来たか”
今週はお濠の話です。

277₋1 濠に悩む江戸城
江戸城は 地形学的には武蔵野台地の扇状地に出来た「淀橋台」「本郷台」の2つの河岸段丘と江戸湾に注ぐ河川の沖積地に造られた。
城は湾に向かっての傾斜地を利用して 川を堰き止め流れを変え 水濠と土塁を築き、(日比谷濠など)砂州の低地では土盛りと石垣を組み 掘を造り築城した。
その結果 城の周囲に造った濠の (土橋形)城門の左右で水面標高が違うため濠水管理の苦労が偲ばれる。図Ⓐ千鳥ヶ淵とⒷ日比谷濠の水面標高差が15mもあることからも想像できます。
江戸時代も今も 内・外郭及び城内の濠の数が20を超えるため 濠水管理は水の流れを決めるパズルのような水面管理に頭を悩ませていたようす。
          *現在は宮内庁に専門部門がある。
277-2 千鳥ヶ淵
江戸城の重要な水源の一つだった千鳥ヶ淵の水面標高は15.98(環境庁平成23)で 内濠では一番の標高です。土橋で仕切られている濠のレベル調整は連絡水路の仕切り板で行われていたようです。

277₋3 桜田濠
千鳥ヶ淵から2つの土橋を隔てた桜田濠の水面標高は3.8m、隣の日比谷濠が1.43m、かなりの標高差がある江戸城です。

277-4 現在の神田川
 江戸は築城当初から「飲み水管理」「防御」「河川利用」に頭を痛めていた。
城の飲水の主なものは「千鳥ヶ淵」「溜池」と城の横を流れる「平川(今の神田川になる前身)」に頼っていたが、江戸の街は下流域が低地のため降雨・潮位による水位の増減で船荷扱いの苦労が大変だったのです。
幕府は 平川の水量調節を仙台藩に命じ1661(万治4)本郷台の一部を開削し駿河台を分け平川を分流し現在の神田川が出来、江戸の外濠としたのです。

山ケン

2019年10月6日日曜日

10/4 天下普請で完成した江戸城


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20191004 
カメラ散歩  江戸城シリーズ Ⅰ “江戸城石垣の話”

皇居(江戸城)は過去7回、写真スケッチを掲載しましたが、令和になった今年 少し深堀シリーズを企画してみました。

江戸城の遺跡は“石垣”だらけと言っても過言ではない程石垣が目立ちます。
だが 江戸周辺には石材産出がほとんどないのに江戸城が出来たその訳は・・・







2761天下普請で完成した江戸城
江戸城構築家康が征夷大将軍任命後の1604(慶長9)から本格的になった“天下普請*”により 多くの大名・豪商が動員され始まった
付近に石材産出が無い江戸に 彼らが伊豆半島各地から江戸まで運んだ数百万個を超える石材とその工事”は1636(寛永13:家光) 江戸城 内・外郭の総構 完成まで30年間続いたのです。
 *天下普請(てんかふしん)江戸幕府が全国の諸大名に命令し行わせる
土木工事で 幕府が命じた天下普請は二条城など城の造営で13ケ所あっ
たが、江戸城のそれは桁違いな規模で、石船建造が延べ1000艘を超え
伊豆半島から江戸へ数百回/年 海上輸送されたと記録もあり、石垣構築
の関係人員は数えきれない程大規模だったと推測できます。

2762中の門石垣
大手門から入って本丸跡に通じる“中の門”は1638(寛永15年)にその原形が普請され1703年 元禄大地震で破損、翌年池田吉明(鳥取藩主)が大改修。その後 関東大震災で渡櫓が大破 石垣のみ残った。
 この石垣は江戸城の中でも最大級は約36tクラスの巨石を使った「切込接ぎ・布積み技法(写真のとおり隙間のない石垣)」で造られていたが、約300年間の痛みが目立ち 2005(平成17年)8月から2007(平成19年)3月まで20カ月かけて解体・修復工事が行われ原型に近い姿に戻ったのです。

1.   276-3北桔橋門(きたはねばしもん)
本丸天守台の裏から北の丸を結ぶ“北桔橋門”の石垣構築は江戸城一番の高石垣でこの辺りが城内で一番標高が高く(25m)写真手前下の平川濠からも18mの高さになります。この普請は松平定行(家康の甥:桑名)・立花宗茂(筑後柳河藩主)らが受け持ったと記録があります。  

2764石垣に残る刻印
清水門(桝形門)”は1624(寛永元)安芸広島藩主 浅野長晟(あさのながあきら)構築、明暦の大火で焼失。1658(万治元) 石垣はそのまま使用、石垣の上部 の渡櫓は時期が不明ながら撤去・保存されていたものを19611966(昭和3641)の修理で復元整備したものです。
 山ケンのいい加減な石垣の刻印石調べで“三ツ輪”“扇”など家紋らしいものが数個見つかったが 刻印目的・誰のものかなどは特定出来なかった。
参考までに 宮内庁刊行の「特別史跡江戸城・皇居桔梗濠沿い石垣修復報告書;2013(平成25)によると該当範囲内の905個の築石で約300個に刻印が有った。とのことです。刻印は生産者・普請者・工事境界印などいろいろな目的で彫りこまれているとのことでした。

山ケン