2019年12月27日金曜日

12/27 師走






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20191227

とうとう師走も幾許(いくばく)もありません・・・
週刊写真便りも発刊2014620日)以来5年と半年、1回も休まずに何とか来られました。これも(掛け替えのないお友達)BCC会員 皆さんの存在が力になって「写真撮り・歴史調べ」などに励めたおかげです。
感謝!


288-1 晩秋の日比谷公園
徳川家康が初めて江戸に来た時1590年:江戸幕府開闢の13年前) 日比谷は江戸湾の入り江だったのに・・・今ではすっかり紅葉の映える公園。
若者たちの通勤・散策道です。

288₋2 寄り道
「お昼はあそこの松本楼でカレーにしない?」
・・・そうですネ 明治36年開業の松本楼のカレーは美味しいですヨ!

288₋3 真っ白なキャンバス
「さ-って、と・・・令和2年は何を描こうかナ」
 ・・・では来年また・・・

山ケン

2019年12月20日金曜日

12/20 写真散歩 “向島”







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20191220
写真散歩 “向島”
 ・「向島」の名前が正式な行政地名として使われるようになったのは1891(明治24年)向島小梅町、向島須崎町、向島押上町などといった町名が出来てからです。それまでは 全て武蔵野国の片田舎でした。
 ・ 江戸時代“浅草”“新吉原”“山谷(江戸時代は旅人の常宿群)の対岸にある向島は 由緒ある“社寺”が多く風光明媚なため 江戸の粋人、旅人達“竹家の渡し(現在の言問橋の場所にあった)”“吾妻橋(昔は大川橋⇒東橋)”を利用して料理屋に通った街でした。
・明治から大正、昭和になり 言問橋、白髭橋、東部浅草線の開業で さらに発展、東京の一大“花街”に変化した。向島だけでも最盛期には待合料理屋が100軒~200軒、芸妓は1000名以上が各検番在籍していたとのことです。

*向島で 有名な作家の作品にも書かれている 私娼街“ 玉ノ井・ハトの街”のことは 無粋人間には情報が乏しく今回は扱い無しです スミマセン!

287-1墨堤通りの路地
向島はかつて関東大震災と東京大空襲でほとんど焼け野原になった街で、現在は東京墨田区人口の約6割 16千人(2017) 庶民が暮らす路地の多い昭和の平凡な下町です。平成になりスカイツリーの完成で賑わいが少し戻りました。

287-2 今に残る“通り”の名前 
 古い町名は無くなったが 当時を忍ばせる“見番通り”“墨堤通り”などの名は今も残っています。そして 驚くことに吉川英治、幸田露伴、佐多稲子、淡島寒月など数えられない程多くの文人達が住んでいたことです。その理由は“!?
どなたかご存知でしたら教えて下さい。
最近東京でも “七福神詣” が流行っていて向島の七福神も「隅田川七福神」として賑わっています。どうぞ・・・

287₋3 4 向嶋墨堤組合とその付近
 昭和の姿を残す “見番通り”と“墨堤通り”です。
 昼間の向島は静かな下町、でも夜はどんな姿なのか 酒を絶った山ケンの散歩の時間では分かりませんでした()

山ケン

2019年12月15日日曜日

12/13 歳の瀬の浅草スケッチ







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20191213

歳の瀬の浅草スケッチ

2861 羽子板市
早いもので来週1719日は浅草寺羽子板市です。
最近は 物を買うときも「“インスタ映え”確認ですかネ・・・」

286-2  お披露目
 バス通りの片側は貸し切りでしょうか!?
花嫁行列はこれから「浅草国際通り」に向かうようですヨ・・・ 
浅草のお巡りさんは肝っ玉が大きいので交通信号を変えたのかも

286-3 めぐみ地蔵さん
 浅草寺境内では静かなお地蔵さんの姿が大好きです。

286-4 母子地蔵さん
 このお地蔵さんが浅草寺宝物殿の前にあるのをご存知でしたか? いつも季節に合う衣装が楽しみでここに寄ります。
「仲見世通り」は外国の人達で 歩く隙間もない程の混みようなのに、垣根一つ隣のここには「だーれも」立ち寄りません。

山ケン