2016年1月30日土曜日

1/29 プロペラの音









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写真便り20160129(84)号

今週のテーマ;プロペラの音
今週は山ケンの道楽 空を飛ぶ“もの”です。

ぼくは飛行機のプロペラ音が大好きだ
軽やかな音でドップラー効果音を残して通過する飛行船
芝刈機の親分のようなパラグライダー
プロペラの風切り共鳴音だけのドローン
夕陽の中で蚊の鳴くような小さく漂っている音

昔“エンジン”とあだなを付けられたころのぼくが
そこに居た


83-1青空を行く飛行船
83-2空中散歩パラグライダー
83-3手賀沼にドローン出現
83-4夕陽の中で


山ケン

2016年1月23日土曜日

1/22 冬です 身近にいる鳥を撮ろう












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写真便り20160122(83)号

今週のテーマ;冬です 身近にいる鳥を撮ろう

冬は鳥達にとって餌の確保のために人家の近くで生活しているので
写真撮影が簡単にできます。
ポイントは鳥の目が写っていると安心して見られますネ

鳥写真の撮影のポイント
①背景はできるだけ単純に ごみごみした枝や、人工物は出来るだけ避け、
ズームカメラでは望遠側にして“背景ぼけ”を狙います。
②対象の鳥が来る場所が分かったら翌日その時刻に同じ場所で撮影態勢をとって
「ひたすら待つ」ことです。
*動物は一日の生活行動がパターン化していてほぼ同じ時刻に現れます。
③カメラのシャッターは“シャッター優先”で出来るだけ早い速度に設定。
*シャッター速さをレンズ焦点距離の数値の2倍以上速く⇒焦点教距離200㎜の
レンズでしたら1/400以上又は手振れ補正があるカメラでは補正を有効にします。

83-1 スズメ(雀)
スズメ目ハタオリドリ科
このすずめは隣家の屋根裏を住み家にしていて冬の群れすずめにはならないで
毎日決まった時間に2羽で餌探しをしています。
すずめも冬は厚着になるようです。

83-2シジュウカラ(四十雀)
スズメ目シジュウカラ科
山ケンの庭にも冬はペアーで毎日餌探しにきてくれるのですが、
なかなか良いアングルで写真に納まってくれません。
そのため手賀沼まで出向き撮影しました。葦の幹から何かの幼虫を捕ったところで
す。

83-3ツグミ(鶫)
スズメ目ヒタキ科ツグミ亜科
ツグミは土の中に居る昆虫が大好物で お天気の良い日に
土手などにじっとしていると結構近くまで来てくれます。

83-4ムクドリ(椋鳥)
スズメ目ムクドリ科
椋鳥は雑食性で木の実や枝先の昆虫が少ない冬は公園などで芝生にいる昆虫を
探していますからチャンスありです。

83-5ヒヨドリ
スズメ目ヒヨドリ科
人家近くに生活していて以外と人をおそれず、ベンチでお弁当のときなど
おにぎりのこぼれを取りきます。

83-5 キジバト(雉鳩)
ハト目ハト科
キジバトは生活力旺盛で人家の周辺でも平気で営巣します。
20年ほど前に山ケンの家の小さなヤマモモの木に営巣、
2羽のヒナを孵したことがあります。
巣は大変粗末な組み方で産卵したタマゴが下から透けて見えるほど
ペアーがよくタマゴを落としていました。

山ケン

2016年1月15日金曜日

1/15 隅田川及び周辺のカメラ散歩その1

写真便り20160115(82)号

隅田川及び周辺のカメラ散歩その1

今週のテーマ;隅田川の架橋が江戸百万都市に・・









隅田川の上流千住に初めて橋(千住大橋)が架けられたのは徳川家康が江戸に入府4
年後の
文禄3年(1594)でした。

82-1、2 隅田川の名称の変遷
隅田川はもともと荒川の下流にあたり 江戸時代には浅草近辺を「浅草川」、「隅田
川」、
上流は「荒川」「宮古川」と呼ばれていた。
明治43(1910)年8月関東地方は記録的な大雨に襲われ隅田川が氾濫、東京の下町一
帯が
大洪水になったのを契機に 東京北区岩淵に水門を設け荒川放水路が作られた。
その後、昭和40(1965)年に放水路の方を荒川、岩淵の水門から下流東京湾までの区
間を
正式に隅田川という名称になったのです。

82-2何度も架け替えられた両国橋
家康入府から57年後、徳川四代将軍家綱のとき 明暦3年1月18日(1657年3月2日)
19日にかけ三次に渡り冬の激しい北風の中 連続して火事が発生。
江戸城の天守をも焼失する大規模火災“明暦の大火”となって江戸の6割が焼失し
た。

当時の大川(隅田川)には橋が無く逃げ場を失った多くの江戸町民が火勢にのまれ、
死傷者が10万人に及んだ。
この事態を重く見た老中酒井忠勝(1587 ~1662)らの提言により大川に架橋を決断し
た。
2年後 万治2年(1659)、江戸築城以来初めて橋(両国橋)ができた

この大火災害からの復興の過程で延焼防止用“火除地(広小路)”の整備、
人の移動利便性のための架橋が功を奏して対岸の本所、深川などが発展、
その後40年間に ①吾妻橋 ②新大橋 ③永代橋と三つ増えた。
川向うの町の発展が 後の百万都市「大江戸」になって行ったのです。

*参考;江戸の人口が百万超えになったのは
 ⇒八代吉宗(1716~1745)の頃です(Wikipedia,YAHOO知恵袋による推計値)

82-3北斎「冨嶽三十六景色 御厩川岸 両國橋夕陽見」
葛飾北斎が描いた当時の両国橋風景です。

82-4何度も架け替えられた両国橋
両国橋は流出や焼落、破損により何度も修理、架け替えが行われ木橋としては
明治8年(1875)12月の架け替えが最後となる。
西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は
明治30年(1897)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐えられず
10mにわたって欄干が崩落して死傷者が十数名にも及んだ。
明治の世に入ってからの事故ということで、鉄橋へと架け替えが行われる
ことに決定した。

82-5初めての鉄橋
明治37年(1904)現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わった。

82-6 現在の両国橋
この橋は関東大震災では大きな損傷がなかったが他の隅田川橋梁群の復旧工事に
合わせて、震災後の昭和7年(1932)に現在の橋に架け替えられた。


山ケン

2016年1月8日金曜日





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写真便り20160108(81)号 今週のテーマ;浅草寺

今年は隅田川と橋、その付近を主にレンタ自転車利用で写真スケッチの予定です。





先ず手始めは隅田川吾妻橋の袂にある浅草寺です。

浅草寺本堂(観音堂)の周りには 西隣に“影向堂(ようごどう)”がありお堂・仏
さまが、
東側には“浅草神社(三社様)”があります。さらに
三代将軍家光に 慶安二年(1649)に寄進された重要文化財“二天門”など貴重な建
造物が多く
浅草は昔を忍ぶ懐かしい場所です。

81-1浅草寺仲見世
最近の仲見世は参詣人の半数近くが外国の人たちで1年中が縁日のような賑わいで
す。

81-2浅草寺本堂(観音堂)
話は古く 推古天皇36年(628年)、現・隅田川で漁をしていた兄弟の網に小さな仏
像がかかった。
仏像は身の丈一寸八分(約5.5㎝)の金色の観音像だった。兄弟は出家し自宅を寺に
改めて供養した。
これが浅草寺の始まりです。
大化元年(645)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地に参り観音堂を建立
し、
夢告によりご本尊をご秘仏と定めた。
天安元年(857)に延暦寺の僧 円仁(慈覚大師)が秘仏の前立ちとしてご本尊を謹刻
した。
以来今日までこの伝法(でんぼう)の掟は厳守されています。

81-3影向堂(ようごうどう)
影向堂は生まれ年(干支)毎の“守り本尊”をお祭りをします。
今年の干支の申は“大日如来”で28日が縁日です。
年男、年女はどうぞお参りください。

影向堂の周りに建立された仏さま・御堂は20以上あり参拝は大変ですが、
落ち着いた雰囲気で昔を忍ぶのに良い場所です。

81-4おびんずるさん
長野善光寺や西国三十三所で有名な“賓頭慮(びんずる)尊者”が浅草にも居られま
す。
町の人に「おびんずるさん」と親しまれている“なでぼとけ”がそれで
病の部分と同じ箇所を「なで さする」と病が治ると言われ 今でも参拝者が絶えませ
ん。
さすが外国の人は少ないですネ

皆さんもどこか気になる所があるようでしたらどうぞ!

81-5三社様
毎年5月に行われる例大祭が御神輿で有名な“三社祭り”です。
江戸時代から続く三社祭は 明治になって実施された神仏分離により浅草寺と浅草神
社の社が
別扱いされたのですが 江戸っ子の気持ちは昔と全く変わらない盛大さです。

山ケン

2016年1月1日金曜日

1/1 平成28年元旦号

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写真便り20160101(80) 平成28年元旦号

明けましておめでとうございます。

今年も
“綺麗・楽しい・「あっそうか!」”と感じていただける写真を掲載したいです。

80-5 「初詣この一枚を撮りたくて」山ケン
  元日の0時6分の柏神社です。山ケンは0時3分にお参りしました(笑)

どうぞよろしくお願い致します。

山ケン