2021年2月28日日曜日

2/26 手賀沼自然ふれあい緑道(公園)にて

 





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20210226

 

   手賀沼自然ふれあい緑道(公園)にて

 

 今週の写真便りは、手賀沼添いに距離8Kmもあるサイクリング/遊歩 専用緑道と言う長―い公園でのカメラスケッチです。

 「カメラは何もしゃべりません」どうぞ

 

3491 うん?

349-2 なんだ?

349-3 どうして?

349-4 あ、そうか!

 

山ケン

2021年2月20日土曜日

2/19 【江戸時代の俳句作家三人】 その4

 














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20210219

江戸時代の俳句作家三人 その4 

 小林一茶

 

 小林一茶は “生きているもの・こと”をそのままに句にしてしまう普通の人

“子供・大人”“小動物”などの言葉・音が単純に「575の文字に・・・

それまでの俳聖「芭蕉」芸術家「蕪村」と全く違う彼の世界は“擬声語・擬態語”“擬音語”“普通の会話”などをつかって 平凡な文字が一茶調発句」になったのではないでしょうか。

 

 【なぜなのか? “一茶の生きざま”を垣間見る事で考えてみました】

3歳で生母と死別、継母と折り合いが悪く15歳で江戸へ奉公に出され 江戸谷中の寺で小僧になった。和尚の感化で俳諧を習い覚え、葛飾派の名跡を継ぐまでになりプロの俳諧師」として 独り生活をしながら各地を渡り歩いた。

 その間 中風(脳梗塞)で2度程倒れたが養生の甲斐あって再起。江戸をはじめ各地(特に千葉東葛地区)で俳諧師として発句指導を生活の糧にしていた。

39歳の時、故郷(北信濃柏原)に帰って直ぐに父親が病死、家族間の遺産争いが始まった。和解したのが12年後、故郷に落ち着いたときには既に51歳だった。

52歳で最初の結婚、子を4人もうけたが、妻も子も病で次々と失う。家のことを心配し再婚するも嫁から老人扱いされ即 離縁。その後家系の存続を心配してくれた縁者たちの勧めで本人の意思と関係なく64歳で3人目の妻を迎え子も出来たが…一家は柏原の大火1827年:文政10年)で焼け出され、焼け残った土蔵に住んだ。 (既に妻のお腹にいた)自分の子の顔も知らずに発句指導で忙しく飛び回り途中三度目の中風発作を起こし(1828)65歳の生涯を閉じた

 

ああままよ 生きても亀の 百分の一」……ある日の日記から

 

生涯二万句も作った一茶の句には、芭蕉、蕪村には無い皮肉や自嘲が混じる句も多いが「一茶調」と言われる自然の情景が溢れています。

それらは全て彼の波瀾万丈人生の「半面発句」だったのでは と思いあたり

一茶の作品はそのまま受け入れるのが最善」と心に決めました。  

 

*一茶の句を取り入れたフォト俳句で、このシリーズを終わります。

3481、2、3、4、5

山ケン

2021年2月14日日曜日

2/2 手賀沼の冬鳥たち

 






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20210212
   手賀沼の冬鳥たち
 手賀沼は冬鳥が渡って来ると俄然賑やかになります。
写真ヤにとって冬は被写体が増えて楽しいのですが寒さの中での「書き入れ
時」になり困ったものです(笑)
 でも今年は冬鳥全体に数が少ないようです…

347₋1 コハクチョウ家族飛来
 千葉県には印旛本埜村(前;印旛群モトノムラ⇒現在;印西市)に 毎年千羽近くのコハ
クチョウが渡って来ます。最近その群れから度々遠出して手賀沼に遊びに飛来
する家族が増えてきました。
今年の冬は2家族8羽が何度も飛来して来ます。

347₋2 今年の子供
羽根が茶色のまだら模様が今年の子供で、北に還る頃にはかなり白くなるは
ずです。
 飛来理由は確かではないが、昨年の写真便り339(20201218)号記事のとおり
、手賀沼で産卵し子育て中の家族以外の殆どが 南部手賀地区に移動してしま
ったため、手賀沼中央部にはコブ白鳥が居なくなった。その関係なのか不明だ
が過密状態の印旛本埜村から訪れるようになったようです。
彼等の飛来は単に餌場を求めてなのか、子供の飛行訓練かは確かではないが
、 2・3日とう留したり 日帰りだったりして本埜村に戻るのを繰り返していま
す。

347-3 カモメとオオバン
 カモメも冬の来訪者です。
毎冬 遊歩道駐車場で人が餌撒きをしてくれるのを待つオオバンとカモメ。
地元定住のオオバン(我孫子市“市の鳥”)と、冬の出稼ぎカモメ(海岸を離れ
この辺りまで餌探しに来るので)との餌獲得合戦はカモメが素早く餌を取ることが特
技です。

347-4 横取り
オオバンが拾った餌を横取りすることも度々です。

2021年2月5日金曜日

2/5 【江戸時代の俳句作家三人】 その3

 

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20210205

江戸時代の俳句作家三人 その3 

 

 与謝蕪村(よさ ぶそん)

 

蕪村は松尾芭蕉や小林一茶など、江戸時代の有名俳諧人の中では異色の存在です。

単に俳諧で有名になっただけではなく 絵師としても名を馳せていて 同じ京都に住んでいながら全く交流が無かった天才絵師“若冲”と同い年です。が、画は全く独自の画法で名を成した。

また発句を独学の絵画と融合した「俳画という独自の芸術を確立させたのも蕪村でした。

*今回は俳人“蕪村”の話です。絵師としては代表作品のみ掲載しました。

 

3461 蕪村の肖像*

 摂津国東成郡(現:大阪府大阪市都島区)生まれ。20歳で江戸に出て「俳諧」を学ぶ。が、当時の江戸の俳諧は芭蕉の「発句の道」と違っていて、あまりの低俗化を見限り1742年27歳の時 下総国結城(現:茨城県結城市)の友人宅に寄寓する。

*:この絵は蕪村が京都に居を構えたころの弟子(江戸中期の絵師 本姓松村)“呉春”作

 

346-2 奥の細道絵巻

 蕪村は「敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れがつのり」遂にその足跡を辿る決心をして僧の姿に身を変え 絵を宿代の代わりに置いて旅を続けた40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。

彼は1744年寄寓先宇都宮で編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した

 

3463 蕪村の俳画

その後更に各地を転々とし 42歳の頃 京都に居を構え 45歳で 結婚、一人娘を授かったが、51歳で又も各地に旅立ち、俳諧・絵画の修行を続けた。漸く京都に戻った彼は猛烈に活動した。島原の角屋(すみや)*で発句を教えていた蕪村が かつて京都に住いしていた俳諧師 早野巴人*の弟子だったことから“夜半亭二世”と推讃されたりした。 

*;もと京都島原の花街の有名料亭

*:早野巴人(はやの はじん⇒“夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)”) 宝井其角の門人、俳諧師

 

346-4 最後の居宅跡 

蕪村は、妻が選んだ居宅に戻った1784117日未明、家族の看取る中 静かに生涯を閉じた。

68歳だった。

*辞世の句 しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」

   *場所;京都市下京区仏光寺通烏丸西入ル

 

【絵師としての参考作品】

3465 鳶鴉(とびからす) 

 蕪村の絵師としての代表的な墨絵です。今回説明は省略します。

 

山ケン