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20181116
上野界隈散歩シリーズ
第二話 東叡山寛永寺 その1
230-1東叡山寛永寺(とうえいざん かんえいじ)
現在の東叡山寛永寺は上野の東京芸大の裏にあり
ひっそりとして訪れる人も少ないお寺です。
が、この寺は徳川将軍家の祈祷所・菩提寺、徳川歴代将軍15人のうち6人もの霊廟がある名刹。17世紀半ばから皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として強大な権勢を誇っていたのです。
現在の根本中堂は以前寛永寺の子院・大慈院があった敷地に、明治12年(1879年)川越 喜多院(天海大僧正の寺院だった)の本地堂を移築した質素なものです。
230₋2 根本中堂内陣
外観に比べ 内陣は大変豪華な造りで 中央の大きな厨子に安置されている本尊釈迦三尊像は 平安初期に造像されたものです。ここに根本中堂を建立するにあたり近江の石津寺(せきしんじ)から迎えられたもので“秘仏”になっています。
*この内陣撮影は特別に許可を貰いました。
230₋3 初代歌川広重「東都名所 上野東叡山全図」
*東叡山寛永寺最盛期の姿を初代歌川広重が画いています。
開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海で本尊は薬師如来です。
1625年(寛永2年)家光が創立を決断、今の東京国立博物館の場所に本坊(貫主の住坊)が建立された。
その後、1627年(寛永4年)には 今は焼失した“法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵”、現存する東照宮など建立。 1631年(寛永8年)には清水観音堂、五重塔が建立された。
寺の中心になる 根本中堂(間口45.5m、奥行き42m、高さ32mの大伽藍:焼失)が落慶したのは開創から70年以上経った 1698年(元禄11年)、五代将軍徳川綱吉の時でした。
230₋4上野戦争 旧寛永寺図
上野戦争は、慶応4年
江戸城無血開城が成立した後、徳川に“義”を示す過激派“彰義隊”が結成され
上野寛永寺境内に籠もり新政府軍と寛永寺各門で対峙した。
慶応4年5月15日午前7時 雨の中 新政府軍 薩摩藩の宣戦布告により三方からの戦闘が開始。
佐賀藩のアームストロング砲・四斤山砲*1の攻撃などにより根本中堂をはじめ主要な堂宇は焼失 壊滅的打撃を受けた。午後5時に戦闘は終結した。彰義隊はほぼ全滅、生き残りが根津方面に落ちていった。
上野のお山は明治になって新政府に接収され 公園、学校などが造られた。
*1;①アームストロング砲⇒幕末に佐賀藩が保有していた最新の後装施条
砲で精度が高い。1855年イギリスで開発され佐賀藩は長崎のグラバー
邸を仲介して輸入した。
②四斤山砲(よんきんさんほう)⇒フランス製(青銅製)の山砲(現在の迫
撃砲のような小型砲)で、四斤(約4㎏)の砲弾で威力が強い。
山ケン