2021年4月30日金曜日

4/30 銀座今昔 その4  「令和の銀座」





 

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20210430

銀座今昔 その4  「令和の銀座

令和になってさらに世界のブランドショップが氾濫・加速していた。 

が、昔の銀座も立派に生きているのが分かり、何故か「ほっ」とさせられた。

 

358₋1 銀座4丁目ランドマーク時計塔

1932(昭和7)年より使用中の二代目時計塔は、建物の補修・整備のほか、石造りの外壁洗浄・修復。2009(平成21)年 経済産業省が日本の産業近代化に貢献した建造物の保存・活用を目的とした「近代化産業遺産」に認定された。

 

358-2 日本橋タカシマヤ

1933 (昭和8)年に現在場所にオープンした“日本橋タカシマヤ”は、日ごろのメンテが功を奏して2009(平成21)年 日本の百貨店建築で初めて「重要文化財」に指定された。

 

358-3 ライオンビヤホール

 1934(昭和9)年営業開始の「日本最古のビヤホール」。

GINZA SIXなど平成・令和生まれの近代ビルの谷間で懸命に頑張っていた。

 

358-4 銀座に残る江戸時代からのお稲荷さん

 お稲荷さんは日本中で約3万社あると言われていて、当然江戸時代の銀座にもあった筈で調べてみた。現在の地図上での確認では17社もあるのです。

 銀座は何といっても 土一升/ウン万円銀座の公示価格は平均79百万円/(2020)」だった!!

神社の所在を少し回って調べたところビルの屋上とか 建物の脇に玩具のような鳥居と社 などいろいろでした。土地があまりにも高いため 止むを得ないのでは、と考えながら自転車を走らせていた時に突然思い出したのです

 昔 七丁目の路地裏で 友だちとしばしば通った小さなカラオケ飲み屋の奥、傘をつぼめないと歩けないほどの路地裏に神社があったことを…

なんとそこは 今 路地裏の若者縁結び場所で、パワースポット的な人気の豊岩稲荷神社」でした。多分ここのビルオーナーの信心によりビルを建てたとき 御神体を残し 祀ったのでしょう。

 

「新型コロナ過の事」はあえて話題にしなかった。今回は銀座と言う街の時代変遷に注

目したためでした。

 新型コロナ過と都会の因果関係は、重大過ぎるので、事が落ち着くのを待って考えます。

 

山ケン

2021年4月24日土曜日

4/23   銀座今昔…その3 「平成の銀座」






 


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20210423

 

  銀座今昔その3 「平成の銀座

 

1945(昭和20)年 終戦。戦後の日本はどん底からの復興・成長を遂げて、昭和から平成になり・・・

銀座は何故か世界の“ブランド ショップ”街に様変わりしたのです。

 

3571江戸時代、ここが「銀座」だった

 今は銀貨鋳造の替わりに、世界中の「宝石の集散所」です。

 

35723 銀座2丁目交差点

江戸時代 家康が造った「“銀座役所*の跡地 銀座2丁目交差点付近」は

 cartierBULGARI” “CHANELTIFANYLouis Vuitton

など世界の有名ブランドに占拠され日本人の懐(金銀)」を狙う拠点と化したのです。

 ;銀地金の買売・銀貨幣鋳造所

注;Louis Vuitton2021年3月に銀座7丁目          

並木通りにビルがオープンしました。

 

357-4 銀座3丁目 4丁目

 松屋、三越は新館増設・大改装などでブランドショップに対抗…

 

357-5 銀座6丁目

松坂屋は2013(平成24)年まで、88年間営業を続けたが、この場所に2017(平成29年、“GINZA SIX (ギンザ・シックス)”と言う「内外241ブランドが集結した大型商業ビル」に化けた。

 

銀座は「明治政府が当時のロンドンの街路をお手本に造った 日本人離れした街並み」から140年経った今、今度はロンドン、パリ、ニューヨクどことも比較できない 世界でも稀な街になったのです。

 

山ケン

2021年4月17日土曜日

4/16 銀座今昔…その2 「昭和の銀座」







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20210416

                                                       

    銀座今昔その2 「昭和の銀座」

 

銀座は新聞の街からデパート・大型商業ビルの街へ

 

 関東大震災からわずか一年、銀座は1924(大正13)年 大型デパート“松坂屋”が開業、復興のトップを切った。

銀座・日本橋には その後 陸続とデパート有名商店が集まって東京一の大型商用ビル街に化けたのです。

 

356₋1 大震災後の銀座デパートのトップバッター松坂屋

 大震災で全滅したその翌年1924(大正13)年には、六丁目に銀座復興の先駆けとして松坂屋銀座店が開業した。

 

358-2  銀座松屋

 1925(大正14)年には3丁目に松屋がオープン。 

 

358-3  銀座三越

1930(昭和5)年、4丁目交差点に三越がオープン

 

358-4 高島屋(日本橋)

銀座中央通りに続いている日本橋には1933(昭和8)年高島屋が開業

 

358₋5 老舗商店のデパート化

三越本店1935(昭和10)年銀座4丁目店を追って満を持しデパートとして本格開業。これより少し早く1927(昭和2)年開業していた江戸の老舗 白木屋(後の東急百貨店)1931(昭和6)店舗を大改装しデパートとして営業始めた。

 

だが、デパート営業開始1年後の1932(昭和7)12月、「死者14名、負傷者67名」も出す日本初の高層建築火災発生により大惨事となってしまった。

 

 日本は白木屋大惨事の5年後1937(昭和12)年日中戦争に突入していったのです。

 

山ケン



2021年4月10日土曜日

 





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20210409

 

銀座今昔その1「明治の銀座」

 

 東京の地名としての銀座は徳川家康が銀座役所*駿府から移した(現在の銀座2丁目“ティファニー”の前)のが起源だが、明治維新直後の銀座一帯の大火事*②で江戸時代からの銀座は灰燼と帰した

大火の翌年、明治政府の決断により「先進国に負けない都市の不燃化を目指し 東京の玄関口「新橋ステーション」の前から日本橋まで、道路を拡幅・不燃家屋による日本離れした街並」を計画したことから 銀座の歴史が始まったのです。

    ;銀地金の買売・銀貨幣鋳造所 

    *②銀座大火1872(明治5)43日、和田倉門内 旧会津藩邸

から出火、お堀端から銀座・築地までの950,40041町、4,879戸)

焼失。焼死8人、負傷者60人、焼失戸数4874戸の大火。

 

355₋1、2、3 通りを拡幅 歩車分離して馬車鉄道が走る銀座

火災の翌年1873(明治6)にはお抱え英国人建築家による 歩車分離の27m巾の大通り沿いにジョージアン様式と言う2階建て煉瓦家屋で二階に張り出したバルコニーを丸形列柱が支え、バルコニーの下には歩廊がある」というスタイルを設計、建物は官営”“民営が混在出来る街並みとして 当時としては日本人の想像を超える街になったのです。

 

*江戸東京博物館に造られたこのモデルは現在の四丁目交差点付近の明治

10年代(187786)のものです銀座は「朝野新聞」「曙(あけぼの)新聞」

「東京横浜毎日新聞」「読売新聞」などなどが社を構え、銀座から150紙も

新聞発行された情報発信基地的存在でした。

 

355-4 銀座4丁目に出来たランドマーク「時計塔」

 4丁目角地の朝野新聞が撤退後の明治26年、時計塔を持った建物(初代服部時計店本社ビル)が出来て、新しい銀座のランドマーク的存在になり著しく発展した。

 

 しかし銀座は、1923(大正12年)91115832関東大震災で再び壊滅したのです。

 

山ケン



2021年4月2日金曜日

 







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  公園になった 牧士(もくし)だった 豪農古民家

 

江戸時代 河川改良の大工事東遷(写真便り307掲載)により旧江戸川の上流で流れを変えた新利根川と江戸川にはさまれた下総台地*北西部には小金牧と言う幕府直轄の広大な(馬の放牧地でナポレオンから送られた馬も 放牧されていた)があり、馬の管理者を牧士(もくし)と言った

 *①⇒千葉県の代表的地形名で県央部から北西部まで張り出した大きな台地。

 

 今週の写真便りは 元牧士(もくし)の古民家子孫の吉田家が保存していた母屋を柏市に寄贈、公園として公開したものです。

 

354₋1 長屋門のある正面口

 江戸時代 大名が自分の屋敷の周囲に 家臣などのための長屋を建て住まわせその一部に門を開いて、一棟としたのが長屋門の始まりです。

その後 郷村武士家格の家や、苗字帯刀を許された富裕な農家・庄屋などで長屋門が造られるようになり 明治以降流行した。 

 

354-2 母屋

 吉田家は1826(文政9)年 牧士になり四代にわたり牧の経営に関わった。母屋は1853(嘉永6)年に建てた木造平屋建て寄棟造り茅葺き(かやぶき)です。

 

354-3 室内 間取り図

 書院は母屋と同年建造の木造平屋建て寄棟造り桟瓦葺き*(さんかわらぶき)です。

 *②屋根が重くなる本瓦葺きの弱点対策として、と丸を一体化させた波型の桟瓦を使用した屋根。当時としては斬新なもので、現在の瓦葺きと全く同じ構造・方法です。

 

354₋4 明治のころの銅版画

 牧士の管理仕事に並行して始めた穀物商”“醤油醸造など、吉田家は繁栄した。この銅版画はその頃のものです。筑波山が望見できます。

 

354₋5 小金牧の野馬除土手

山ケンの家から100m程の交差点脇に当時の遺構がそのまま残っていました。

 

山ケン