2016年9月24日土曜日

9/24 お彼岸のころ







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今週のテーマ;お彼岸のころ
季節の節目の晴れた日、カメラ片手のサイクリングが楽しい毎日です。

118₋1 彼岸花
「墓参りあぜ道染めた曼珠沙華(花石)」昔の俳句ノートから。
この時期忘れずに咲く彼岸花は 昔のことを思い出させる不思議な案内人です。

118₋2 夜明け
昨年の9月22日5時31分、手賀沼大橋からの日の出です。
日課にしている日の出、夕陽撮影はなかなか期待とおりに行かないものです。
この日は無風、湖面が輝いてくれました。

118₋3 湖畔の秋
巻雲を見ていると すがすがしい気分になります。
このイネ科の草は「セイバンモロコシ」と言って、
冬の群れ雀たちの恰好の食料になる多年草です。

118₋4 気づいたら満月
夕陽撮影に夢中になり 気づいたら秋の夜がアっという間にやってきて・・・
カラスが慌てて満月の前を帰って行きました。
*レンズ1200㎜ ISO200 f/6.3 1/250


山ケン

2016年9月17日土曜日

9/17 カメラ散歩 江戸城に現存する櫓












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今週のテーマ;カメラ散歩 江戸城に現存する櫓

数多くあったという江戸城の櫓も度重なる火災や地震で損失、
現存するものは伏見櫓、富士見櫓、桜田巽櫓の三基になってしまいました。

【櫓(やぐら)】⇒城門や城壁の上に造った一段高い建物。
        敵状偵察や攻めてくる敵を撃退するための高楼。

117₋1 伏見櫓

江戸城の象徴的な伏見櫓は
三代将軍家光の頃に京都の伏見城の櫓を移築したといわれています

関東大震災で倒壊、現在のものは解体復元したものです。

117₋2 二重橋“正門石橋”と伏見櫓

二重橋という名前は皇居内にある橋の通称です。
皇居正門から長和殿へ向かう途上の二重橋濠に架かる“鉄橋”と“石橋”のことで、
写真は“正門石橋”が正しいとの事です。

117₋3 霞が関ビルから富士見櫓望見

富士見櫓は外部からはなかなか全貌が見られないのですが、
この写真では「八方正面の櫓」と呼ばれた特徴ある三重櫓の美しい姿が偲ばれます。

江戸城のほぼ中央 旧本丸の南東端に位置する最も古い建物で現存する唯一のものです

櫓の初代は将軍が秀忠になった慶長11年(1606)城内で一番高い場所(標高23m)に
本丸と同時に建てられ富士が見えることから富士見櫓と命名。

明暦3年(1657)の大火で焼失の後 万次2年(1659)家綱のときに再建。

富士見櫓は再建後 大火で焼失した天守閣に代わって使用されたと伝えられています。

関東大震災で倒壊したが主要部材に旧材を用いて修復され現在に至っています。

117₋4 桜田巽櫓

皇居外苑に接している桜田巽櫓は本丸から東南(巽)の方位にあることから命名。

この櫓も関東大震災で損壊後解体復元されたものです。

【巽(たつみ)】⇒方位角の名で 辰と巳の間

山ケン

2016年9月10日土曜日

9/9 金魚

Hitoshiコメント) これはいい 贅沢な空間だ

コメント) これもいい




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今週のテーマ;金魚

残暑が続く中 涼しい場所を探して足立区生物園の金魚水槽を眺めてきました。

116₋1 大きな水槽
この大きな水槽には1000匹もの金魚が泳いでいるそうです。
子供が真剣に金魚の数を数えている姿を見ていて
小さいころ自分も夜店の金魚を長い時間眺めていたことを思い出しました。
あれから何年経ったことか・・・・

116₋2 自宅の金魚池
家を持ったとき庭に小さなビオトープ的な小川(数mですが)空間を作り
魚を飼いたいと頑張っていました。
しかし家人の抵抗が事のほか強く 30ウン年が過ぎてしまい7年前ようやく
水温調節可能で循環式の小さな屋外水槽を完成させ金魚の住み家にしました。
今は生茂った風知草に囲まれた水槽には、当時5㎝だった金魚が
20cmほどの鯉なみになり 朝夕軽やかな水音を聞きながら
元気に泳いでいる姿を見て楽しんでいます。

116₋3 金魚1
フナの突然変異で生まれた金魚の歴史は古く中国で1600年も前のことだそうです。
日本に来たのは室町時代と言われ、高貴な人たちの宝物的存在だったようです。
江戸時代後期には庶民の間で普及 大ブームになったと記録がありました。

116₋4 金魚2
ちょっと愛嬌のある顔で不器用な泳ぎの金魚を見ていると無性に愛着がわきます。

涼しい気分の一日でした。

山ケン

2016年9月2日金曜日

9/1 カメラ散歩 道路元標日本橋







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今週のテーマ;カメラ散歩 道路元標日本橋

今日は日本の道路元標の話です。
東京日本橋が日本の道路元標になったのは慶長8年(1603)、
徳川家康の命で日本橋川に木橋を架けたときからでした。

115₋1 19代日本橋
現在の橋は明治44年(1911)生まれの19代“石造二連アーチ橋”で
首都高速道路に頭上を塞がれ肩身の狭い存在です。

115₋2 日本橋歴史
江戸の町に作られた日本橋は 交通の要所として発展し
有名な越後屋(現・三越)などの商家や
魚河岸もある江戸の中心地で 地方に向かう街道の出発点になったのです。

115₋3 現在の道路元標
明治に造られた元標は今もそのままです。
里程標は当時の各街道のもので現在の国道の距離ではありません。

115₋4今一つの道路元標
橋の真上を通る首都高速の脇にこのような道路標識があるのを見たことがありますか?
AH1“ASIAN HIGUWAY”とあり、2005年に設置された標識です。

115₋5 AH₋1 アジアハイウエイ(1号線)
日本橋はヨーロッパに通じる現代のシルクロード
“アジアハイウエイ1号線”の東の出発点になっていたのです。

ここから福岡まで高速道路で行き、玄界灘を船で渡り、
釜山からアジアの西の終点トルコのカプクレと言う町まで
⒛,557Kmのハイウエイの起点です。
現在は北朝鮮が政治的理由で通過できないようですが
他はIS問題の現地以外は走行できるそうです。

テレビ番組「アジアハイウエイを行く(多分このようなタイトル)」と言う
カメラリポートがあったと記憶しています。

山ケン