2017年7月29日土曜日

7/28 江戸城 二の丸御殿物語









今週のテーマ;江戸城 二の丸御殿物語



江戸城二の丸御殿は三代将軍家光(1623~1651)が別邸として寛永13年(1636)に完成、

寛永20年(1643)に作り替えた歴史ある御殿です。

場所は江戸城本丸の東隣で現在は本丸と共に公園になっています。

いままであまり話題にならない二の丸御殿の跡を忍んで訪ねてみました。



162₋1 二の丸御殿の場所

 * “江戸城寛永絵図から二の丸の場所を特定し現在の二の丸公園に描いてみました



本丸の東隣り白鳥濠に面した二の丸は“水舞台”“広い庭園”を配

政務を離れた将軍のくつろぎの場として “(表にあたる)御座之間、書院”

“(大奥になる)二の丸大奥”などを備えた本格的な御殿でした。



162₋2 二の丸絵図

*“江戸城寛永絵図 (http:www.max.hi-ho.ne.jp/khori/Edo_castle_plan.htm)”より抜粋



この二の丸は“明暦の大火【明暦3年(1657)四代家綱】”で本丸と共に焼失。

半年後には以前に本丸改築のとき 越谷喜多院に寄贈し移設復元していた

本丸の一部を持ち帰り二の丸を移築した。

その後、1747年2度目の焼失【延享4年九代家重】、 1760年【宝暦10年 十代家治】、

1833年 【天保4年十一代家斉】に造り替えられたが その詳細資料は探し出せませんでした。



162₋3 幕末の二の丸御殿復元模型

*“幕末の頃の二ノ丸御殿”…江戸東京博物館展示模型を撮影

【安政5年(1858)十三代将軍 家定が死去、篤姫が天璋院となった当時は この二の丸御殿には移らず、

明暦の大火で焼失した天守跡南側で、本丸長局棟との間に居室があったようです。】

(江戸城寛永絵図作成プロジェクトの調査メモから)



“文久の大火【文久3年(1863)】”で3度目の焼失。

慶応元年(1865)に財政困窮な幕府にも拘らず14代 家持が新築。

3年後の慶応3年(1867)12月 王政復古が決まり15代徳川慶喜が大阪城に移った年の暮

12月23日に奇しくも4度目の焼失。

再び建てられることもなく 慶応4年4月 江戸城無血開城。

9月【明治元年】明治維新を迎えた。



・・・そうして 明治元年から149年(平成29年)経った今は・・・・



162₋3 二の丸跡 冬姿

  *小堀遠州(1579~1647)作の泉水絵図を復元した泉水池の対岸より御殿跡方面を撮影

中央のケヤキの辺りから奥が二の丸御殿跡です。



二の丸御殿は1636年創建から1867年の火災まで231年間

新築5回、移築2回、焼失4回と言う運命をたどり江戸城の最後を追うように姿を消しました。





162₋4 初夏の大奥御殿跡

*この辺りが大奥御座敷の跡です。

大奥跡は長年そのままの姿だったものを

昭和天皇のご発意により武蔵野の面影を持つ樹林として整備(昭和57年~60年)され、

樹木豊かな武蔵野の林に還って 昔日を忍ぶ静かな緑に囲まれていました。



山ケン

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