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20210409
銀座今昔…その1「明治の銀座」
東京の地名としての銀座は徳川家康が「銀座役所*①」を駿府から移した(現在の銀座2丁目“ティファニー”の前)のが起源だが、明治維新直後の銀座一帯の大火事*②で江戸時代からの銀座は灰燼と帰した。
大火の翌年、明治政府の決断により「先進国に負けない都市の不燃化を目指し 東京の玄関口「新橋ステーション」の前から日本橋まで、道路を拡幅・不燃家屋による日本離れした街並」を計画したことから 銀座の歴史が始まったのです。
*①;銀地金の買売・銀貨幣鋳造所
*②;銀座大火⇒1872年(明治5年)4月3日、和田倉門内 旧会津藩邸
から出火、お堀端から銀座・築地までの950,400㎡(41町、4,879戸)を
焼失。焼死8人、負傷者60人、焼失戸数4874戸の大火。
355₋1、2、3 通りを拡幅 歩車分離して馬車鉄道が走る銀座
火災の翌年1873年(明治6)にはお抱え英国人建築家による 歩車分離の27m巾の大通り沿いに「ジョージアン様式と言う2階建て煉瓦家屋で二階に張り出したバルコニーを丸形列柱が支え、バルコニーの下には歩廊がある」というスタイルを設計、建物は“官営”“民営”が混在出来る街並みとして 当時としては日本人の想像を超える街になったのです。
*江戸東京博物館に造られたこのモデルは現在の四丁目交差点付近の明治
10年代(1877~86年)のものです。銀座は「朝野新聞」「曙(あけぼの)新聞」
「東京横浜毎日新聞」「読売新聞」などなどが社を構え、銀座から150紙も
新聞発行された情報発信基地的存在でした。
355-4 銀座4丁目に出来たランドマーク「時計塔」
4丁目角地の朝野新聞が撤退後の明治26年、時計塔を持った建物(初代服部時計店本社ビル)が出来て、新しい銀座のランドマーク的存在になり著しく発展した。
しかし銀座は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、関東大震災で再び壊滅したのです。
山ケン
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