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20210108
【江戸時代の俳句作家三人】その1 三人のプロファイル
「俳諧(はいかい)/発句(ほっく)」など俳句の原型は(15~16世紀ころ隆盛した)「連歌(5・7・5の17音からなる前詩と、7・7の14音からなる後詩で構成され 複数人で造る詩)の前詩部分」です。
松尾芭蕉から始まった「俳諧・発句」
江戸時代前期1600年台を生きた松尾芭蕉(1644~1694)は 連歌から発展させた「俳諧/発句の“道”」を詠った俳諧師で「俳聖:松尾芭蕉」と言われていました。
*「俳句」という言葉は明治時代に入って正岡子規が定着させました。
表は「松尾芭蕉」「与謝蕪村」「小林一茶」紹介。
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時代 生まれ~没年 |
没年齢 |
有名な句 発句年代は関係なし・・・山ケン選 |
松尾芭蕉 |
江戸前期 1643?年~ 1694年11月28日 ・・・・・・・・・・ 芭蕉;一言で言えば 「俳諧・発句の道」 の伝道者。 |
50歳 |
古池や 蛙(かわず)飛び込む
水の音 夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡 名月や 池をめぐりて 夜もすがら この道を 行く人なしに 秋の暮 # *旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる 【*最後の句】 門人の居る部屋で“推敲を重ねていて”。次の旅も計画中、この句を辞世句と認識していないはず… |
与謝蕪村 |
江戸中期 1716年~ 1784年1月17日 ・・・・・・・・・・ 蕪村;一言で言えば 「発句と絵画芸術」 の発明者 |
68歳 |
春の海 終日(ひねもす)のたり
のたり哉 古庭に茶筌花さく椿かな 朝顔や 一輪深き
淵の色 御火焚や霜うつくしき京の町 # *しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり 【*辞世句】 静かな姿を妻が確認していた… |
小林一茶 |
江戸中期~後期 1763年6月15日~1828年1月5日 ・・・・・・・・・・ 一茶;一言で言えば 「生きて居たこと」 の証明人。 後継者は二度と出現しない人でしょう。 |
65歳 |
名月を とってくれろと
泣く子かな うまさうな
雪がふうはり ふわりかな 我と来て
遊べや親の ない雀 これがまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺 # #⇒ 山ケン選択の句 *盥(たらい)から 盥へうつる ちんぷんかん 【*最後の句】と言われているが、句会から帰って直ぐ3度目の(中風(脳溢血))発作で床に入り急死した。辞世の句など詠む機会はできないはず。日記、記録など全くない。「誰かの一茶風作品」では
の研究説あり。 ⇒山ケン同感 |
342₋1 芭蕉 肖像画作者;杉山杉風(さんぷう)⇒(1647年)江戸日本橋で幕府御用の魚問屋を 営み豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた門人でありスポンサー。
342-2 蕪村 肖像画作者;呉春⇒1775年頃から本格的に俳諧師や絵師として身を立てていた。
342₋3 一茶 肖像画作者;春甫⇒狩野派の画家で一茶の門人の一人、有名人の肖像画も多い。
山ケン
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