2020年6月27日土曜日

6/26 「手賀沼ってご存知でしたか?」




314
20200626
「手賀沼ってご存知でしたか?」

3141現在の手賀沼
手賀沼は、東京に一番近く縄文期以前から有る湖沼で、江戸時代になり米の石高を上げるための新田開拓で沼の干拓が始まり 明治になって一時中断。
二次大戦後1946(昭和21)から22年間かけて最後の開墾を計画・完了した。
現在の面積は江戸初期に比べ約1/4(周囲18)と小さくなった。沼の北から東にかけて我孫子市街地を挟んで“東遷”後の利根川(307-1)が流れ、JR常磐線と成田線が北側の沿岸近くを走っている。南側は柏市。周辺人口“柏市+我孫子市で約54万人(2015)”今は何故か若者の人口が増え続けています

*BCC写真便り”のお友達の中には 写真のマーク「日立我孫子研修所」を
ご存知の人もいるので印をつけておきました。
*山ケンは点から2.3㎞南に40年前から住み、今は天気が良ければ健康維持のため 毎日沼の周囲約20㎞をカメラ荷台に自転車で走っています。
*周囲の自転車・遊歩の専用道(ピンク線) には1ケ所も交差信号機が無く自動車
などに気遣いせず気分よく走れ/歩ける理想的なスポーツジム”です。トイ
レ・ベンチ・レストランなども頃あいの間隔で有り不便しません。

3142 手賀沼の歴史
 手賀沼は家光・家綱時代(1654年まで)の“利根川東遷(307号参照)”により利根川が直ぐ隣を流れるようになり 沼の出口側は“圦樋(いりひ:沼水排水のため逆流防止木製樋)”で接していた。その頃の手賀沼は今の広さの4倍もある浅い沼地*だった。
沼では1670年代から干拓を始めたが「1688年利根川の洪水で、堤防・圦樋決壊、干拓地全滅」、その後1700年代になり堤防も築いたが、圦樋・堤防とも数年毎に利根の洪水水没、手賀沼の内氾濫などが繰り返された*」。被害は明治・大正・昭和と続き1950(昭和25)「手賀沼出水2700㏊が水没」まで続いた1953(昭和28)事故原因の主犯的存在の 圦樋排水を止めポンプ排水に替え治まった。戦後の干拓は1968(昭和43)ようやく完了した。
*:江戸時代前期⇒ 周囲 約40㎞ 面積 約10平方キロ
 *干拓の歴史;1671年から始まった新田開発から1968年まで297年間で
29回の出水氾濫被害発生(東葛教育研究所 研究協力員 佐々木牧雄氏 記)

山ケン

0 件のコメント:

コメントを投稿