312
20200612
江戸の町を救った“神田上水”
徳川家康入城のころ
下町での飲み水確保は大変だった。
江戸幕府は1600年台になってようやく井之頭池から流れる“平川” (神田川の前の名)を使うことに決めたが、現在の文京区江戸川橋辺りまで江戸湾の汽水(海水と真水が混じる)が上がり塩辛く、神田・日本橋辺りの下町では井戸を掘っても“鹹水(かんすい:塩分が混じった水)”が混じり不味い水だった(本稿は305号の続きです)。
312₋1神田上水
そこで幕府は、豊富な湧水の井の頭池から流れ出ている“平川”に、善福寺池からの湧水、妙正寺池から流れる妙正寺川の河道をつなぎ、汽水が上らない目白下(文京区関口大滝橋付近)に石堰(いしせき)を作って海水の遡上を防ぎ
堰の上流で分水し平川の北側の“ハケ*①”添いに“上水路*②”を造り 下流(現在の水道橋付近)で平川を跨ぐ“懸樋”を通して神田など下町への水道をつくった。これが“神田上水”です。
*①ハケ⇒丘陵地を流れる川の浸食で出来た崖地の片側の呼び名で関東・東北での古語。
*②神田上水⇒ハケの利用は海抜の高い崖添いに水を通すことで 江戸の町まで自然通水する
高低差利用のため。
312₋2江戸名所図会“目白下大洗堰”
神田上水の取水堰は名所になった。上水は水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)を“石樋”を通した後に“懸樋(空中を通した水道橋で、これが水道橋の由来)”や伏樋(地中の水道)により現在の神田から南は京橋付近までの各町内の共同井戸に供給した。
312-3 俤(面影)の橋今昔
目白下大洗堰の少し上流
当時の“俤のはし”付近は豊かな流れでした。
現在の面影橋は400年間の水流による浸食で水面が下がったのでしょう。
312-4 寛永(1624~1645年)の頃の江戸の街
日本橋は江戸の中心として商家が繁盛していた。
江戸の水道はこの後“玉川上水”などが次々造られ やがて江戸の街は18世紀になるとロンドン(1801年:86万5千人)を超える百万人都市になったのです。
山ケン
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