2019年10月6日日曜日

10/4 天下普請で完成した江戸城


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カメラ散歩  江戸城シリーズ Ⅰ “江戸城石垣の話”

皇居(江戸城)は過去7回、写真スケッチを掲載しましたが、令和になった今年 少し深堀シリーズを企画してみました。

江戸城の遺跡は“石垣”だらけと言っても過言ではない程石垣が目立ちます。
だが 江戸周辺には石材産出がほとんどないのに江戸城が出来たその訳は・・・







2761天下普請で完成した江戸城
江戸城構築家康が征夷大将軍任命後の1604(慶長9)から本格的になった“天下普請*”により 多くの大名・豪商が動員され始まった
付近に石材産出が無い江戸に 彼らが伊豆半島各地から江戸まで運んだ数百万個を超える石材とその工事”は1636(寛永13:家光) 江戸城 内・外郭の総構 完成まで30年間続いたのです。
 *天下普請(てんかふしん)江戸幕府が全国の諸大名に命令し行わせる
土木工事で 幕府が命じた天下普請は二条城など城の造営で13ケ所あっ
たが、江戸城のそれは桁違いな規模で、石船建造が延べ1000艘を超え
伊豆半島から江戸へ数百回/年 海上輸送されたと記録もあり、石垣構築
の関係人員は数えきれない程大規模だったと推測できます。

2762中の門石垣
大手門から入って本丸跡に通じる“中の門”は1638(寛永15年)にその原形が普請され1703年 元禄大地震で破損、翌年池田吉明(鳥取藩主)が大改修。その後 関東大震災で渡櫓が大破 石垣のみ残った。
 この石垣は江戸城の中でも最大級は約36tクラスの巨石を使った「切込接ぎ・布積み技法(写真のとおり隙間のない石垣)」で造られていたが、約300年間の痛みが目立ち 2005(平成17年)8月から2007(平成19年)3月まで20カ月かけて解体・修復工事が行われ原型に近い姿に戻ったのです。

1.   276-3北桔橋門(きたはねばしもん)
本丸天守台の裏から北の丸を結ぶ“北桔橋門”の石垣構築は江戸城一番の高石垣でこの辺りが城内で一番標高が高く(25m)写真手前下の平川濠からも18mの高さになります。この普請は松平定行(家康の甥:桑名)・立花宗茂(筑後柳河藩主)らが受け持ったと記録があります。  

2764石垣に残る刻印
清水門(桝形門)”は1624(寛永元)安芸広島藩主 浅野長晟(あさのながあきら)構築、明暦の大火で焼失。1658(万治元) 石垣はそのまま使用、石垣の上部 の渡櫓は時期が不明ながら撤去・保存されていたものを19611966(昭和3641)の修理で復元整備したものです。
 山ケンのいい加減な石垣の刻印石調べで“三ツ輪”“扇”など家紋らしいものが数個見つかったが 刻印目的・誰のものかなどは特定出来なかった。
参考までに 宮内庁刊行の「特別史跡江戸城・皇居桔梗濠沿い石垣修復報告書;2013(平成25)によると該当範囲内の905個の築石で約300個に刻印が有った。とのことです。刻印は生産者・普請者・工事境界印などいろいろな目的で彫りこまれているとのことでした。

山ケン

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