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20191018
カメラ散歩 江戸城シリーズ Ⅲ“江戸城 外郭の城門”
江戸でよく言われた「江戸三十六見附」は1636年の
内郭(内濠)の主な城門(277₋1参照)10ケ所と時期が違うため、今回は1636年当時の外郭城門が有った場所の地図と日比谷門、虎ノ門、馬場先門と和田倉門を紹介します。
278₋1 江戸城外郭の城門(見附)
江戸城が完成した1636年(寛永13)の外郭城門(見附)は22ケ所です。その外郭を歩くと総距離は約12㎞(KEN計測で±2km)。その概略の広さは千代田区と中央区を合わせた約2200ha(22㎦)にも迫り
外郭城内面積は当時ではたぶん世界一の広さだったでしょう。
明治になって
維新政府は皇居と決めた内濠の城門の一部を除き日比谷門をはじめ全ての外郭城門は即刻撤去を決め1873年(明治6)までに撤去したのです。
しかし石垣まで完全撤去が出来ないものがあり
残っている石垣が昔日を忍ばせてくれていますが・・・
278-2日比谷門
1627年(寛永4)浅野長晟が石垣を積み
翌年伊達政宗が枡形門を築いた
日比谷門の特徴は、濠を暗渠にして高麗門前に橋がないこと。枡形の北側(写真手前側)の日比谷濠に面した仕切りがないのは敵を濠へ追い落とす武者落しで 対岸の日比谷櫓から応援射撃が受けられるためです。
*写真;桝形構成の高麗門(右側)・渡櫓と土塁(中央)・日比谷濠(手前)1874年(明治6)城門撤去令以前のものか?
278₋3虎ノ門(虎ノ門見附)
虎ノ門は肥前国佐賀藩主の鍋島勝茂が築いた。枡形そのものものは江戸城普請の1606年(慶長11)に完成した。初期の東海道に通じる門で、四神相応の西を守護する白虎から虎ノ御門と呼ばれた。
2004年(平成16)中央合同庁舎7号館の建設にともなう発掘調査で70mにおよぶ虎ノ御門外濠石垣が発掘された。これらの石垣は、文部科学省構内ラウンジ前や銀座線虎ノ門駅の新庁舎連絡通路内に展示コーナーを設けています。
*写真;1874年(明治6)全体が撤去され溜池からの水路も埋める以前のものと推定。
278-4馬場先門(馬場先見附)
1629年(寛永6)に枡形門か完成していたが架橋されず、不開御門と呼ばれていた。1635年(寛永12)家光が三代将軍就任祝賀に訪れた朝鮮特使団の曲馬を不開門内の馬場で見たことから朝鮮馬場と呼ばれ、それがいつの間にか馬場先の門と呼ぶようになった。
*写真;馬場先門は1904年(明治34)に解体された。
278₋5和田倉門(和田倉見附門)
和田倉門は1620年(元和6)に構築され「蔵の御門」とも呼ばれ、士衆通行(町民は通れない)の橋とされていた。日比谷入江に望んで倉が並んでいたことで、慶長12年頃から和田倉と呼ぶようになった。
和田倉門の高麗門・渡櫓が関東大震災で大破、1914年(大正13)に破却されたが残った石垣に木橋を精密に復元し現在も使われています。
山ケン
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