2021年7月23日金曜日

7/23 オリンピック大会、嘉納治五郎と日本の歴史  その2

370 20210723 東京2020オリンピック開催!     オリンピック大会、嘉納治五郎と日本の歴史  その2 370₋1 今日(2021(令和3)年7月23日) 嘉納治五郎の魂は手賀沼湖畔の本人の別荘跡で、じっと東京方面を見つめているのでは… *手賀沼畔「嘉納治五郎別荘跡公園にて」 370-2 嘉納治五郎が日本のIOC委員になって1912(明治45/大正元)年ストックホルム大会に参加してから百年余が過ぎた。 ピエール・ド・クーベルタンから駐日フランス大使を通じて、東京高等師範学校校長だった嘉納治五郎にオリンピック参加の要請があった1909(明治42)年。IOC委員を受諾した嘉納治五郎は日本のオリンピック参加活動を開始 大日本体育協会設立など多忙な日を送った。  そのうえ、頻繁に海外に出向き、「柔道の講演、実演を通しての紹介と普及に務め、格闘技柔道を教育的手法として広めた」。その後も彼の活躍は留まらず1936年IOCベルリン総会で漸く1940年は東京開催を取り付けた… *嘉納治五郎の努力で柔道は老若男女が柔道衣を身に着けて心身の鍛練に励み、現在は 「約204の国と地域が 国際柔道連盟に加盟(2020(令和2)年現在))している。 270₋3  ベルリンの2年後1938(昭和13 )年、カイロ(エジプト)IOC総会で、1940(昭和15)年東京大会の決定を心に、 帰国途中の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により逝った。 横浜に帰港した嘉納治五郎はオリンピック旗で棺を蓋われて下船したのです。 *1940年東京大会が戦争で中止になったことも、戦後の1964年「東京大会」開催、 「東京2020」のことなど、全てをが… 270-4  今、嘉納治五郎は、手賀沼の別荘と東京の中間点である東京都立八柱霊園(松戸市)で、柔道連盟 加盟国数ほどもある多くの石(人)に守られて 静かに眠っていました。 山ケン

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