266
20190726
隅田川カメラ散歩 14
カメラ散歩13の続き
266₋1現在の隅田川
家康が江戸入り直後1590年(天正18)には
江戸城造りのため石材運搬用に「舟入堀“道三濠”(266-2参照)」を開削し、城の北側を流れていた旧平川(現在の日本橋川の前身)につなげ
隅田川を経由して石材運搬を行った。 その後1629年(寛永6)隅田川の舟運行確保のため水量の多い荒川を隅田川源流の入間川に付け替える「瀬替え」により
隅田川の河道*①が荒川の本流となって江戸の舟運がさらに栄えた。
*水量が安定した隅田川上流域は物流のための水路利用で発展要因になった。
*①;河道⇒自然な地形/築堤などで定まる川の流れの道【流路と同じ】。
266-2隅田川下流域に初めて橋が出来た
・・・話を江戸時代に遡ってみる・・・
図1)家康が関東に来た1590(天正18)年頃は城の手前まで“日比谷入り江”が迫り、川の堆積土(砂州)で出来た“江戸前島”の直ぐ先が隅田川と江戸湾。
当時の隅田川の対岸“大川
向こう”は低湿地帯で河川の氾濫、潮の満ち干で水没するような人が住めない海抜零メータ地域だった。
図2)1659年(万治2年)~1661年(寛文元年 四代家綱)
“大川向こう”の治水運河・下水網もようやく整備され
両国橋が出来たことで、江戸の人口増加のきっかけになった。
266₋3 隅田川架橋の完成
1774年(安永3)、“大川橋”(現在の吾妻橋)完成。吾妻橋は千住大橋下流
隅田川5番目に出来た江戸時代初めての民営有料橋で
武士以外の人から2文(約40円)徴収したが人の往来は多くなった。
この橋の架橋により“大川向こう”が著しく発展し
江戸人口は1800年頃には百万人を超え世界一の都市になったのです。
266₋4 現在の神田川
川口と総武線鉄橋付近
東京オリンピック2020に向け水上バスが行き交う隅田川はますます重要な都市インフラに成長しました。
山ケン
0 件のコメント:
コメントを投稿