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20190215
上野界隈散歩シリーズ
第12話 正岡子規と野球
「上野公園内の東京文化会館の横に“都民野球場”があるのをご存知ですか?」
その広場が2002年(平成14年)「正岡子規記念球場」と名付けられ、さらに正岡子規は野球に貢献した人として特別に表彰され“野球殿堂入り”も果たしたのです。
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この野球場が
子規の随筆“筆まかせ”に「明治21年3月21日午後、上野公園博物館横空地で試合を行なった」とある所です。
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子規は1884年(明治17年)第一高等中学校に入学するとまもなく野球をおぼえ、他のスポーツには目もくれず野球に夢中になっていった。
英語が堪能で「ベース:Base」を基礎⇒“基”との 訳にこだわった以外は現在も使っている用語が多い。
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1892年(明治25年)彼は大学を退学“日本新聞社”に入社すると随筆にベースボールに関する英文を翻訳した解説掲載で広く野球啓発に貢献した。
彼は明治27年 上野寛永寺裏(写真1☆印)に母妹と共に住み、そこを「子規庵」と命名し活躍した。明治29年 記者として日清戦争に従軍帰路初めて喀血。
243-4 子規の部屋
帰国後 子規は病魔に負けず句会・歌会などに励んだが徐々に病魔は進行し「脊髄カリエス」もひどくなっていって
机(写真)を特注で作らせたりした。
山ケンが子規庵を訪ねた12月、あいにくの休日で中には入れなかったが彼が辞世の三句を残した9月18日(命日は19日)の記憶“ヘチマの実る庭”の写真が貼ってあり コピー撮影しました。
山ケン
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