2016年4月9日土曜日

4/8 数奇な運命の新大橋





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今週のテーマ; 数奇な運命の新大橋
新大橋は五代将軍徳川綱吉時代の元禄6年12月7日(1694年1月4日)、
千住大橋、両国橋に次いで3番目に架けられました。
架橋後何度も破損、流出、焼落があり、
その回数が20回を超えたと記録が残っています。

94-1新大橋  歌川広重最晩年の作
八代将軍徳川吉宗(1716~1745)は幕府財政窮地に至った享保(1717~1735)、
橋の維持管理をあきらめ廃橋を決めた。が 町民衆の嘆願により橋梁維持に伴う
諸経費を町方が全て負担することを条件に延享元年(1744)には存が許された。

 *歌川広重(1794~1858) この絵はゴッホが模写したことで有名

94-2「江戸名所図会」より新大橋 斎藤 月岑
町衆は維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに
橋が傷まないように橋のたもとに
「渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は通行禁止」
と高札書きを掲げた民営の橋でした。

*斉藤月岑(さいとう げっしん:1894~1878)江戸の町名主、考証家。
『江戸名所図会』『武江年表』など江戸の町についての基本資料を著述したことで知
られる。

94-3 新大橋は鉄橋になって「お助け橋」になった
明治になって 西洋式の木橋として新しく架け替えられたものの事故は止まず、
ついに明治45年(1912) にトラス式の鉄橋として生まれ変わったのです。

しかし大正12年(1923) 関東大震災で同じ鉄橋の永代橋が橋底に木材を
使用していたため橋底が炎上し多くの焼死者、溺死者を出した。
この時 隅田川の全ての橋が喪失した中で 新大橋が唯一被災せず
避難の道として多数の人命を救い「お助け橋」といわれたのです。


94-4現在の新大橋
お助け橋になったものの 二次大戦後 交通量の増加に橋台が耐えられず
沈下が激しくなり ついに大型自動車通行禁止橋になってしまった。

昭和 53年(1978)、初めて橋が架けられてから284年目にようやく
強固な基礎の上に斬新軽量な斜張橋(吊り橋の一種)の新大橋が完成したのです。

山ケン

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