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20210219
【江戸時代の俳句作家三人】 その4
小林一茶
小林一茶は “生きているもの・こと”をそのままに句にしてしまう普通の人。
“子供・大人”“小動物”などの言葉・音が単純に「575」の文字に・・・
それまでの俳聖「芭蕉」、芸術家「蕪村」と全く違う彼の世界は“擬声語・擬態語”“擬音語”“普通の会話”などをつかって 平凡な文字が「一茶調発句」になったのではないでしょうか。
【なぜなのか? “一茶の生きざま”を垣間見る事で考えてみました】
3歳で生母と死別、継母と折り合いが悪く15歳で江戸へ奉公に出され 江戸谷中の寺で小僧になった。和尚の感化で俳諧を習い覚え、葛飾派の名跡を継ぐまでになり「プロの俳諧師」として
独り生活をしながら各地を渡り歩いた。
その間 中風(脳梗塞)で2度程倒れたが養生の甲斐あって再起。江戸をはじめ各地(特に千葉東葛地区)で俳諧師として発句指導を生活の糧にしていた。
39歳の時、故郷(北信濃柏原)に帰って直ぐに父親が病死、家族間の遺産争いが始まった。和解したのが12年後、故郷に落ち着いたときには既に51歳だった。
52歳で最初の結婚、子を4人もうけたが、妻も子も病で次々と失う。家のことを心配し再婚するも嫁から老人扱いされ即 離縁。その後家系の存続を心配してくれた縁者たちの勧めで本人の意思と関係なく64歳で3人目の妻を迎え子も出来た。が…一家は柏原の大火(1827年:文政10年)で焼け出され、焼け残った土蔵に住んだ。 (既に妻のお腹にいた)自分の子の顔も知らずに発句指導で忙しく飛び回り途中三度目の中風発作を起こし(1828年)65歳の生涯を閉じた。
「ああままよ
生きても亀の 百分の一」……ある日の日記から
生涯二万句も作った一茶の句には、芭蕉、蕪村には無い皮肉や自嘲が混じる句も多いが「一茶調」と言われる自然の情景が溢れています。
それらは全て彼の波瀾万丈人生の「半面発句」だったのでは と思いあたり
一茶の作品は「そのまま受け入れるのが最善」と心に決めました。
*一茶の句を取り入れたフォト俳句で、このシリーズを終わります。
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山ケン
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