2016年5月12日木曜日

5/6 永代橋は二度も落橋・炎上事故に








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今週のテーマ;永代橋は二度も落橋・炎上事故に

98-1 橋脚の高い大橋の永代橋
永代橋は、元禄11年(1698)5代将軍徳川綱吉の50歳を祝して架橋。
江戸城下では千住大橋、両国橋、新大橋についで4番目の橋です。
ここは海からの多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり
当時としては未曽有の規模の大橋だった。

橋が出来てから20年、江戸幕府は吉宗の主導した財政安定化のための
“享保の改革”により新大橋と共に廃橋を決めた。
が、ここも町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が
全て負担することを条件に存続を許された。
町方は自主的に通行料を徴収し維持に務めた。
でも、お侍さんは“ただ渡り”だったそうです!

98-2 落橋事故
十一代将軍徳川家斉時代 文化4年8月19日 (1807年9月20日)、
深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐えられず
落橋事故を起こす。群衆が次々と押し寄せては転落し、
死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超え、
史上最悪の落橋事故と言われた。

太田南畝(おおた なんぽ)の狂歌です。
「永代とかけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」

*太田南畝【(おおた なんぽ 号:蜀山人)寛延2年(1749)~文政6年(1823)
当時の文人で狂歌三大家の一人】

98-3 日本初の鉄橋 再び災難に
事故後補修を続けながら運用、維新を迎えるころには相当傷みがひどくなった。
明治30年(1897)になって ようやく道路橋としては日本初の鉄橋を
現在の場所に架橋した。
しかし、橋底に木材を使用していたため、関東大震災の時に
多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出してしまった。


98-,4現在の永代橋完成
大正15年(1926)、震災復興事業の第一号として現在の橋ができた。
「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と
言われたこの橋は 現存する最古のタイドアーチ橋で
日本では最初に径間長100mを超えた橋でした。

90-5 永代橋と東京スカイツリー
今も健在な永代橋は2007年に勝鬨橋、清州橋と共に国の重要文化財になりました。

山ケン

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