2016年1月15日金曜日

1/15 隅田川及び周辺のカメラ散歩その1

写真便り20160115(82)号

隅田川及び周辺のカメラ散歩その1

今週のテーマ;隅田川の架橋が江戸百万都市に・・









隅田川の上流千住に初めて橋(千住大橋)が架けられたのは徳川家康が江戸に入府4
年後の
文禄3年(1594)でした。

82-1、2 隅田川の名称の変遷
隅田川はもともと荒川の下流にあたり 江戸時代には浅草近辺を「浅草川」、「隅田
川」、
上流は「荒川」「宮古川」と呼ばれていた。
明治43(1910)年8月関東地方は記録的な大雨に襲われ隅田川が氾濫、東京の下町一
帯が
大洪水になったのを契機に 東京北区岩淵に水門を設け荒川放水路が作られた。
その後、昭和40(1965)年に放水路の方を荒川、岩淵の水門から下流東京湾までの区
間を
正式に隅田川という名称になったのです。

82-2何度も架け替えられた両国橋
家康入府から57年後、徳川四代将軍家綱のとき 明暦3年1月18日(1657年3月2日)
19日にかけ三次に渡り冬の激しい北風の中 連続して火事が発生。
江戸城の天守をも焼失する大規模火災“明暦の大火”となって江戸の6割が焼失し
た。

当時の大川(隅田川)には橋が無く逃げ場を失った多くの江戸町民が火勢にのまれ、
死傷者が10万人に及んだ。
この事態を重く見た老中酒井忠勝(1587 ~1662)らの提言により大川に架橋を決断し
た。
2年後 万治2年(1659)、江戸築城以来初めて橋(両国橋)ができた

この大火災害からの復興の過程で延焼防止用“火除地(広小路)”の整備、
人の移動利便性のための架橋が功を奏して対岸の本所、深川などが発展、
その後40年間に ①吾妻橋 ②新大橋 ③永代橋と三つ増えた。
川向うの町の発展が 後の百万都市「大江戸」になって行ったのです。

*参考;江戸の人口が百万超えになったのは
 ⇒八代吉宗(1716~1745)の頃です(Wikipedia,YAHOO知恵袋による推計値)

82-3北斎「冨嶽三十六景色 御厩川岸 両國橋夕陽見」
葛飾北斎が描いた当時の両国橋風景です。

82-4何度も架け替えられた両国橋
両国橋は流出や焼落、破損により何度も修理、架け替えが行われ木橋としては
明治8年(1875)12月の架け替えが最後となる。
西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は
明治30年(1897)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐えられず
10mにわたって欄干が崩落して死傷者が十数名にも及んだ。
明治の世に入ってからの事故ということで、鉄橋へと架け替えが行われる
ことに決定した。

82-5初めての鉄橋
明治37年(1904)現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わった。

82-6 現在の両国橋
この橋は関東大震災では大きな損傷がなかったが他の隅田川橋梁群の復旧工事に
合わせて、震災後の昭和7年(1932)に現在の橋に架け替えられた。


山ケン

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