305
20200424
江戸発展は水を制することから始まった。
その結果 徳川幕府は世界に類を見ない街“江戸”を造ったのです。
江戸城は巨大な“武蔵野台地”を流れる多摩川と荒川に挟まれ、江戸湾に突き出た“舌状台地*①”の先端にあります。
徳川家康が初めて江戸に入った1590年頃の江戸城の南東側は“日比谷入り江”と言われた湾、反対側は台地に出来た“河岸段丘*②”の連なりで平地は全くない。さらに日比谷入り江の対岸“前島*③”の東側は江戸湾に注ぐ荒川・利根川などの沖積低地で不毛の湿地帯だった。海抜零の低地は常に海水が入り込み地盤は弱く、とても人が住めるような場所ではない時代だった。
【今回の説明地図は地形のイメージが解るように『標高地形図(3D地図)』を使用】
*①;舌状台地⇒ちょうど舌を伸ばしたように突き出た台地の先端
*②;河岸段丘⇒川の流れで土地が浸食され川辺が崖のような段々状になる地形
*③;前島⇒(データが無く位置は標高から推定) 305-1図の有楽町付近の点線部
305₋1都心標高地形図
幕府は先ず城造りに必要な石材調達で 石の豊富な伊豆半島から石材を運ぶために“道三濠”を掘削 江戸湾からの水路を確保した。また外濠造成のため忍ケ丘*③を切り崩して“伊達濠”として平川(現:神田川)を分水した。
さらに飲水確保のために“神田上水懸樋”を造り下町への飲水網を造った。
*③;忍ケ丘⇒舌状台地を江戸湾から見ると独立した五つの山「飛鳥山・道灌山・忍ケ丘(現:
湯島付近の台地一帯)・紅葉山(現:皇居吹上御所付近)・愛宕山 」に見え「城南五山」
と言われていた。
305-2神田上水御茶の水
下町で「塩っぽい水」を使っていた町民が特に大喜びしたのが 平川の水を「懸樋」を使って各町内の共同井戸に配水された武蔵台地からの飲用水だった(神田上水関連⇒402に掲載予定)。
305₋3 江戸の上水
幕府は水で苦労した町民用にさらに5ケ所の上水路を造り配水した。
明暦の大火後 1713年(正徳3年)頃には江戸の町数が933町にもなった。
山ケン
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