2017年11月10日金曜日

11/10 カメラ散歩 江戸城三つの門









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20171110 
カメラ散歩 江戸城三つの門
平川門は大奥女中の通用門、北桔橋(きたはねばし)門はお城一堅固な守り、半蔵門は非常時の脱出門でした。

177-1 平川門
*江戸城で桝形門(高麗門、渡櫓門)と木橋の一式が昔のまま残っているのはこの門だけです。
桝形門が寛永12(1635)、木橋の初代が慶長19(1614)、以降数度の改修の後、昭和63
(1988)現在のものに架け替えられました。

平川門は江戸城の裏門にあたり 大奥、二の丸に最も近く、大奥女中たちの出入りする通用門、 御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもありました。
この門は別名“不浄門”とも言われていて、殿中で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭は重罪人とされ、城内の座敷牢に留め置かれた後、一関藩主 田村邸へお預けとなるために城外へ出されるとき、この平川門から江戸の町中を通り隅田川向こうの深川 田村邸へ向かったのです。

177-2 北桔橋門(きたはねばしもん)
江戸城本丸の北、大奥から外部に直接通じる門で、天守()直下の重要地点にあるところから、濠を深く、石垣を江戸城の城壁の中で最も高く石垣が18.5m、堅固な“野面積み(のづら積み)”工法にしたのです。江戸時代この橋は はねばし門と言われたとおり「はね上げ仕掛け」だったのですが、今は固定になっています。

177-3 半蔵門
この門は大手門の真後ろに位置していて、有事の際「将軍を甲州街道経由で幕府の天領である甲府へ逃すための」の“搦手(からめて)*”でした。
そのため重要なこの門の警固を服部正成・正就父子に任せ、門外には服部家の家臣(与力30騎、伊賀同心200名)が組屋敷を構え四谷へ通じる甲州街道(現在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯を旗本屋敷で固めていたことから 名前が“半蔵門”になったと言われています。
搦手門⇒大手門に対して裏門

177-4 明治時代の半蔵門
門は 搦手口の門の性質上 小さな虎口(城門)で 狭く目立たない構造でした。
太平洋戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものです。

177-5 皇居外苑全図
現在の半蔵門内は 皇居吹上御苑で、 御所(今上天皇の住居)、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿などがあります。
今は主に天皇及び内廷皇族が皇居の出入りに用いることがあり、一般人の通行は認められていません。
現在一般開放されている門は平川門、北桔橋門、大手門、清水門、田安門、桜田門です。

山ケン

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