287
20191220
写真散歩 “向島”
・「向島」の名前が正式な行政地名として使われるようになったのは1891年(明治24年)向島小梅町、向島須崎町、向島押上町などといった町名が出来てからです。それまでは
全て武蔵野国の片田舎でした。
・
江戸時代“浅草”“新吉原”“山谷(江戸時代は旅人の常宿群)”の対岸にある向島は
由緒ある“社寺”が多く風光明媚なため
江戸の粋人、旅人達が“竹家の渡し(現在の言問橋の場所にあった)”“吾妻橋(昔は大川橋⇒東橋)”を利用して料理屋に通った街でした。
・明治から大正、昭和になり
言問橋、白髭橋、東部浅草線の開業で
さらに発展、東京の一大“花街”に変化した。向島だけでも最盛期には待合、料理屋が100軒~200軒、芸妓は1000名以上が各検番に在籍していたとのことです。
*向島で
有名な作家の作品にも書かれている
私娼街“ 玉ノ井・ハトの街”のことは
無粋人間には情報が乏しく今回は扱い無しです
スミマセン!
287-1墨堤通りの路地
向島はかつて関東大震災と東京大空襲でほとんど焼け野原になった街で、現在は東京墨田区人口の約6割
1万6千人(2017年)、
庶民が暮らす路地の多い昭和の平凡な下町です。平成になりスカイツリーの完成で賑わいが少し戻りました。
287-2
今に残る“通り”の名前
古い町名は無くなったが
当時を忍ばせる“見番通り”“墨堤通り”などの名は今も残っています。そして
驚くことに吉川英治、幸田露伴、佐多稲子、淡島寒月など数えられない程多くの文人達が住んでいたことです。その理由は“!?”
どなたかご存知でしたら教えて下さい。
最近東京でも
“七福神詣”
が流行っていて向島の七福神も「隅田川七福神」として賑わっています。どうぞ・・・
287₋3 4 向嶋墨堤組合とその付近
昭和の姿を残す
“見番通り”と“墨堤通り”です。
山ケン
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